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「……佐藤さん。顔面温度が基準値を大幅に超えています。視線も定まっていない。これは明らかに『体調不良』ですね」
「即刻、全業務を停止し、ベッドで休むことを命じます」
夜会の翌朝。
豪華絢爛な公爵邸の寝室に響いたのは、いつもの冷徹な一ノ瀬部長の声……ではなかった。
それは、氷点下の理性と
その奥に隠しきれない焦燥感が混じり合った
硬く、重い響きを持った声だった。
私は、鉛のように重い瞼を押し上げようとしたけれど、体中の節々がミシミシと軋み
まるで全身が石に変わったかのような感覚に襲われる。
頭の中には、熱い霧が立ち込めているみたいで、思考が霧散し、言葉を形にすることができない。
ただ、喉の奥から乾いた音が漏れるだけだ。
「あぅ……ぶ、部長…大丈夫、です……。今日の『社交界マーケティング』の資料作成、まだ……」
「全く……熱で脳がオーバーヒートしている部下に、まともなアウトプットなど期待していません」
「でも…っ」
「佐藤さん、貴女の自己管理能力の低さは、帰還後の人事考課に響きますよ。……いいから、大人しく寝ていなさい。これは上司命令です」
部長は、いつもの隙のない甲冑を脱ぎ捨て
ラフなシャツ姿のまま、私のベッドサイドに陣取った。
眼鏡の奥で光る、鋭いけれど何処か熱を帯びた瞳。
大きな手が、私の熱いおでこに、そっと、躊躇いがちに置かれる。
冷んやりとしていて心地いいはずなのに
あまりの至近距離に、私の心臓の鼓動は熱とは別の意味で、ドクンドクンと激しく跳ね上がってしまう。
「でも……どうして部長がわざわざ…メイドさんもいるのに」
「……ひどい熱です。最初こそメイドに任せるつもりでしたが、貴女のことだ。私が目を離した隙に、無理をして起き出すというリスクが極めて高いと思いましたからね」
「……よって、本日の私の全スケジュールをキャンセルし、貴女の看病に専念することを決定しました」
「ええっ、部長が看病……!?仕事はいいんですか!?」
「……今の私の最優先事項は、貴女の健康回復です。貴方に傷がつけば、このプロジェクト全体が破綻します。……文句があるなら、熱を下げてから、論理的に説明しなさい」
部長は、現代から唯一持ち込んでいた
何故か内ポケットに入っていた常備薬の錠剤を取り出した。
しかし、この世界の水は少し癖があるし
私の喉は熱で腫れ上がっていて、ただでさえ大きな錠剤を飲み込むのは、今の私には至難の業だ。
苦しげに顔をしかめる私を見て、部長は静かに息を吐いた。
「……飲めませんか。喉の炎症により、嚥下機能が著しく低下しているようですね。…仕方ありません。代替案で行きます」
「代替案……?」
部長は無表情のまま、薬を一粒、躊躇なく自分の口に含んだ。
そして、コップの水を一口含むと
驚く私を、力強く、けれど何処か大切に抱き寄せた。
眼鏡を外し、熱っぽく潤んだ瞳が、私の視界を独占する。
至近距離で触れる、彼の男としての香りが、熱で混濁した私の脳をさらに痺れさせる。
「ぶ、部長……? 何を…」
「……効率化ですよ、佐藤さん。……大人しく、受け取りなさい」
重なる、熱い唇。
驚きで開いた私の口内に、冷たい水と
部長の体温で溶けかかった薬が、強引に流れ込んでくる。
部長の舌が、薬を奥へと押し込むように、優しく
確実に私の口内をなぞり、逃げることを許さない。
心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃と
部長の「男」としての熱情が、私の熱をさらに数度跳ね上げた。
「ん……っ、ふぅ…」
ようやく唇が離れたとき
部長の顔は、熱のある私よりもずっと、真っ赤に染まっていた。
彼は口元を片手で覆い、視線を泳がせながら、掠れた声で吐き捨てた。
「……これは、あくまで『投薬』という名の、緊急避難的な医療行為です。……コンプライアンス違反だの、セクハラだのという、くだらない報告書は一切受け付けません。……いいですね?」
「……部長…っ、それ、ずるいくないですか……」
「……うるさい。早く寝なさい。……ひより、貴女が完全に治るまで、私は一歩もこの部屋から出ませんから」
初めて、下の名前で呼ばれた。
その響きが、あまりにも優しくて、切なくて。
部長の大きな手が、私の小さな手をぎゅっと握りしめる。
その温もりに包まれながら、私は熱の海へと沈んでいった。
どうやら、鬼上司の「看病タスク」は
私の体だけでなく、心まで完膚なきまでに「買収」するつもりらしい。
あいゆず