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冬の朝。空気が張りつめるような静けさの中で、元貴は目を覚ました。
左の耳に、妙な違和感がある。
耳鳴りのような「キーン」という高い音がずっと続いていて、外の音がぼやけて聞こえない。
まるで、水の中に沈んでいるみたいだった。
「なんか……変だな」
独り言を呟きながらも、その日はスタジオに向かった。
滉斗と涼ちゃんがすでに到着していて、何気ない会話の合間に、元貴はヘッドホンを装着した。
「じゃあ、ちょっと合わせてみよっか」
再生ボタンを押して音を流す。だが――。
「……あれ?」
左側だけ、音がすり抜けていく。ギターの音も、ピアノも、どこか薄ぼんやりしている。
「どうした?」
隣でギターを構える滉斗が、不思議そうに元貴を覗き込む。
「左耳、なんか変。音が、遠い」
その一言で、スタジオの空気が張りつめた。
数時間後、病院で下された診断は「突発性難聴」。
医師は真剣な顔で、「早期治療が大切です。ストレスや疲れも関係しているので、なるべく安静にしてください」と告げた。
ショックだった。
自分の耳が壊れるなんて、思ってもみなかった。
音を信じて、音に救われてきた。
それを届けるために歌ってきたのに――。
その夜、元貴はソファにうずくまり、じっと窓の外を眺めていた。
街の音は聞こえているはずなのに、心には何も届いてこなかった。
⸻
「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこにいたのは滉斗だった。
手にはスーパーの袋を提げていて、「晩飯、作ってきた」と、いつもの調子で笑う。
「……なんで来たの」
「そりゃ来るだろ。心配だからに決まってんじゃん」
遠慮も気遣いも一切なしに、滉斗はずかずかと中に入り、鍋の準備を始めた。
キッチンから香る出汁の匂いに、元貴は少しだけ肩の力を抜いた。
「……俺さ、左耳の音、ほんとに聴こえないの。今も、滉斗の声、ちょっとくぐもっててさ……」
言いながら、声が震えた。
「俺、どうすりゃいいの? 音楽、歌……できなくなったら、俺、何者なんだよ……」
滉斗は一度火を止め、真剣な目で元貴を見つめた。
「元貴の音楽ってさ、耳で作ってると思ってんの?」
「……え?」
「違うよ。お前は心で音を鳴らしてる。耳がダメでも、心がある限り、音楽は終わらない」
その言葉に、元貴は少しだけ泣いた。
涙が流れても、言葉をかける滉斗の声だけは、右耳にしっかりと届いていた。
⸻
その翌日、今度は涼ちゃんが訪ねてきた。
手には小型のICレコーダーが握られていて、Bluetooth対応のスマホ用イヤホンも一緒に渡された。
「これ、こないだのライブ音源。リハの時から録ってたんだ。
よかったら、聴いてみない?」
「……聴こえなかったら?」
「聴こえなくても、思い出して。あのとき、みんなで奏でた音。
元貴の声に、僕たちが重ねた音。覚えてるでしょ?」
涼ちゃんの優しい声に促されて、元貴はイヤホンを右耳に差し込む。
――ギターの音。ピアノの音。観客の歓声。
そして、自分の歌声。
左耳は曇っていたけれど、右耳が、心が、確かに覚えていた。
忘れていたものが、胸の奥から溢れてきた。
涙がまた頬を伝った。
「……聴こえるよ。ちゃんと、心に届いてる」
その時、元貴は初めて“音を失うこと”が全てではないと知った。