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まだ外が薄暗い時間。
翠は目覚ましが鳴る前に起きた。
正確には、眠れなかっただけだけど。
物音を立てないように制服に着替えて、
鞄を持つ手も、そっと。
廊下に出ると、
リビングの電気は消えたまま。
誰にも会わない。
会ったら、きっと顔に出る。
玄関で靴を履いて、
ドアを開ける。
ひんやりした朝の空気が、肺に入ってきて、
少しだけ頭がはっきりする。
——よし。
そう思って、学校へ歩き進めてしばらく経った。
その時。
「……おはよう」
背後から、落ち着いた声。
びくっと肩が跳ねて、
翠は反射的に振り向いた。
そこにいたのは、
赫の学年主任の先生だった。
もうスーツ姿で、
鞄を持っている。
「早いな」
「体調はどうだ?」
その一言で、
胸の奥がぎゅっと縮む。
「……大丈夫です」
反射みたいな返事。
先生は少しだけ視線を下げて、
翠の顔色や、立ち方を見ていた。
「今日は、誰とも一緒じゃないんだな」
責めるでもなく、
確認するみたいな口調。
「……はい」
沈黙が落ちる。
朝の住宅街は静かで、
その静けさが、逆に逃げ場をなくす。
先生は、少し迷ってから口を開いた。
「昨日、ちゃんと休めたか?」
翠は、答えに詰まる。
“休む”って、
どこからどこまでを言うんだろう。
少し間を置いて、
小さくうなずいた。
「……大丈夫です」
また、その言葉。
先生は、それ以上追及しなかった。
代わりに、ぽつりと言う。
「お前は」
「誰かのために動きすぎる」
翠の指先が、
無意識に鞄を握りしめる。
「……そんなこと」
「ある」
きっぱり、でも優しく。
「昨日の動画も」
「質問も」
「全部、“赫のため”だっただろ」
胸の奥が、ざわつく。
「……でも」
「赫ちゃんが守られないと、意味ないです」
その言葉は、
もう迷いなく出てしまった。
先生は、しばらく黙ったまま、
それを受け止めてから言った。
「翠が壊れたら」
「守れるものも、守れなくなる」
その言い方が、
“説教”じゃなかったからこそ、
胸に刺さった。
「今日は」
「何かあったら、すぐ来い」
「保健室でも、職員室でもどこでもいい」
「約束できるか?」
翠は、一瞬だけ迷って、
それから小さくうなずく。
「……はい」
約束の意味を、
ちゃんと分かってないまま。
「行ってこい」
その声に背中を押されて、
翠は歩き出す。
数歩進んでから、
振り返って言った。
「……ありがとうございます」
先生は、何も言わなかった。
ただ、
その背中を見送っていた。
翠は、
その視線が消えるまで、
少しだけ歩幅を狭めていた。