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無言のまま履歴書と職務経歴書を交互に見つめる白極さん。どちらも時間をかけて丁寧に書いておいたのでおかしなところはないはずだけど、こうやって真剣に見られるとやはり緊張する。
しばらく履歴書と睨めっこした白極さんは、それらをばさりとテーブルに放り投げて……
「三ノ宮 凪弦。俺はお前が我慢強く根性のある奴だと聞いているが、本当に自信はあるか?」
鋭い視線と声音で問われて、彼から目を逸らす事と嘘をつくことは許されないんだと分かる。その美しさのせいかもしれないが、白極さんには言葉にしなくてもそれだけの迫力があるのだ。
「あります。根性と負けん気なら、前の勤め先でも私が一番だったと思いますので」
「……どうしてそう思う?」
白極さんの質問にこのまま答えていいのか迷う。前の職場で嫌がらせにあっていた私を、雇いたいと思うだろうかと不安になったから。
でも私が話すのをじっと待ってる白極さんに、このまま黙っているわけにもいかなくて……
「就職してわりとすぐ、職場の上司と揉めたんです。その方が結構ねちっこい人で、随分嫌がらせもうけましたが自分から辞めたりはしてやるもんかって思ったんです。まあ、結局三年でリストラされちゃったんですけど」
「なんで、揉めたんだ?」
……意外。そんなの興味ないとか言いそうなのに、白極さんは真剣な表情で私の話を聞いてくれている。それが何故だか少し嬉しかった。
「くだらない事ですよ?」
「……良いから話せ」
どうやら私には話さないという選択肢は与えられていないらしい。白極さんって何でも自分の思うままに物事を進めていく人なのかもしれない。
けれどこの人が、これから私の上司になるかもしれないわけで……
「よくある話ですよ、その女上司の仲の良かった男性社員に連絡先を渡されたんです。しつこくて断り切れず一度食事に行っただけで、次の日から陰で尻の軽い泥棒猫みたいに言われまして」
ああ、思い出しただけで腹が立つ。仕事は半人前のくせに男遊びは一人前だとか、そんなくだらない言葉を三年も延々と聞かされ続けたのだ。
「その男性社員は上司の恋人だったのか?」
「いいえ、少しも相手にされていませんでしたよ。なのに新入社員とは食事する、その事が余計に悔しかったんでしょうね」
だからと言って私に嫌がらせしたところで、その男性が振り向いてくれるわけもない。その事に彼女は気付けなかったようだけど。
「我慢したのか、ずっと」
「ええ、でも自分の言いたいことは最初に思いきり言い返しておいたので。その後は奴隷のように扱き使われましたが」
そう……あの時の真っ赤になって震える上司の顔、嫌がらせが酷くて辛く苦しい時はそれを思い出して耐えたのだから。
「……ふうん、奴隷でもいいのか」
「はい?」
小さく呟かれた声が、ちゃんと聞こえなくて私は聞き返す。今、白極さんから嫌な言葉を繰り返された気がしたのだけど。
「お前はどんな職場でどのような条件を出されたとしても、きちんと働ける人間。そう思ってていいんだな?」
「……え?」
なんだか|長谷山《はせやま》先輩から聞いた話よりもハードルが上がっていませんか? 私はそこまで大丈夫だと言ったつもりは無かったんですけど……
「|凪弦《なつる》、返事は?」
え、いきなり私の下の名を呼び捨てですか?
そんな事よりも、ここで「はい」と言わなければ|白極《はくごく》さんの会社では雇ってもらえないだろうか? 私にはもう後も無い、これからは何だってやるしかないのだと思い直し、今度こそ心を決めた。
「はい、白極さんに納得していただけるようきちんと働いてみせます!」
「そうか……」
白極さんが片方だけ口角を上げて楽しそうに目を細めてみせる。その瞳の奥に何か邪悪なものを感じて背中がゾクゾクっとしてしまう。
「今すぐこれを書け。俺の会社で働くための契約書だ」
バサリと渡された書類、確かに一番上に【雇用契約書】と書いてある。でもまだ私は白極さんの会社の仕事内容も聞いていないのに……?
「あの、私まだいろいろと聞きたいことが……」
「心配しなくていい、その契約書を書いた後ならいくらでも答えてやる。どんな仕事でもきちんと働いてみせる、お前はそう言ったよな?」
……これは私は選択を間違ったのかもしれない。白極さんの薄い笑みを見て、私の中で【後悔】という文字が浮かびつつあった。
それでも|白極《はくごく》さんからの「早く書け」という笑顔の圧を受ければ、私はノロノロとペンを動かすしかなくて。仕事内容と契約内容をきちんと確認する余裕もないまま、その契約書に署名捺印をしてしまったのだ。
「……書けたか? よこせ」
私が判を押したと同時に白極さんに奪われる契約書。私の書いた内容を一通り確認すると、彼は満足そうに頷いてそれを鞄に仕舞った。
とりあえずこれで私は白極さんの会社で雇ってもらえると言う事だろうか?何とか未来のホームレスは逃れられる、そう思ってホッとしかけたのだけれど……
「それじゃあ……お前、今日から俺の奴隷な?」
……は? 白極さんは私の顎を掴み自分の方を向かせて、楽しそうに笑っている。私は白極さんの言葉の意味が分からず、ただ彼をボケっと見ているだけで。
だって今この人は私の事を【俺の】奴隷だと言ったのよ。俺の会社の社員でもなく、俺の部下でもない。
「|凪弦《なつる》、返事は?」
「いやいや、おかしいでしょ? 何ですか、奴隷って……」
さすがにこの状態でお気楽に「はい」なんて言えませんよ。確かに私は半分冗談で奴隷扱いなんて言いましたけど、貴方の奴隷になりたいなんて言ってませんからね?
だけど、白極さんは今日見た中で一番凶悪な笑みを浮かべて……
「奴隷は奴隷だ。どんな条件でもきちんと働ける……そんな俺の質問に返事をしたのはお前だろ、凪弦。これから五年間、お前がどれだけ頑張れるのか楽しませてもらうぜ?」