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意味不明な|白極《はくごく》さんの言葉に、私は目の前のお冷を飲み干すと伝票を手にして黙ったまま席を立つ。これ以上、彼とまともな会話をするのは不可能だと判断したからだ。
あの|長谷山《はせやま》先輩が紹介してくれたのに、普通の勤め先だなんて思ったのが間違いだった。まさかその経営者がこんな変人だったなんて予想もしなかったから。
深く関わらないうちに、さっさと退散しよう。そのためなら彼の飲み物代ぐらいは自分が払ってもいい。
「先輩には後で思い切り文句言ってやるんだから」
そうぶつくさ言いながらレジの女性に伝票を出そうとすると、後ろからやや乱暴に手首を掴まれる。
「……良い度胸してんな、お前」
白極さんはレジの女性にお札を渡すと、私の手首を掴んだままズンズンと歩き出す。背の高い白極さんに速足で歩かれると、こちらは自然と小走りになる。新しく買った安物のパンプスが合わなかったのか、踵が擦れて痛いのに……
「白極さん、あの……ひゃあっ!」
この話は無かった事に、そういうつもりだったのよ? だけどいきなり白極さんの肩に担がれ、思わず変な声が出てしまって。
「わ、私は米俵じゃありません!」
「馬鹿言え、米俵の方がお前よりずっと大人しくて軽い」
私はそこまで重くないわよ! レディに対して何の遠慮も無い失礼な男の肩の上で、今すぐ降ろせと言わんばかりにジタバタともがく。
「降ろしてくれなきゃ大声で叫びますよ、いいんですか? 警察を呼ばれて困るのは|白極《はくごく》さんの方……」
いくら変人でも私に大声を出されてまで、強引に連れて行こうとはしないはず。そんな風に考えたのだけど、私はまだまだ甘かった。
精一杯の脅しさえも、白極さんは鼻で笑って……
「ここまで目立っておいて今更? 真面目で良い子の|凪弦《なつる》に俺をパトカーに乗せることが出来るかどうか、それを楽しむのも良いかもしれないな」
……グッと続きの言葉を飲み込む、こんな短時間にどうして私の性格をそこまで理解してしまえるの? 私にそんなことが出来ないのは自分が一番よく分かってる。
白極さんに何かあれば、彼の会社の従業員が困る事になる。この程度の事で彼を警察に突き出す勇気なんて私にはないのだ。
「……卑怯です! 私はまだは貴方の所で働くなんて……あ」
そこまで言って思い出した、私はさっき内容をよく読ませてもらえないまま契約書にサインをしてしまったことを。まさかあれって……?
「卑怯はどっちだ? 契約書にサインしておいていきなりバックレようとしやがって。久しぶりに|苛め《育て》がいのありそうな奴隷が来たんだ、そう簡単に逃がすかよ」
……今、絶対セリフと違うことを思ってますよね? 大体、私はそんな期待には応えられませんからね⁉
「サインしたんじゃなくてさせられたんです! そんなの有効なわけないじゃないですか」
私を抱えたままの|白極《はくごく》さんの背中をバシバシと叩いてみるけど、ビクともしない。それどころか彼は余裕の表情で足早に大きな建物の中へと入っていく。
オートロックの玄関から広々とした煌びやかなエントランスホールを抜け、エレベーターに乗り込む。その間も私は抱えられたまま……
当然のように押された最上階のボタンに、私はだんだん嫌な予感しかしなくなってくる。やっぱり白極さんの会社の心配なんかしないで叫んでおくべきだった、なんて後悔してももう遅い。
ワンフロアに玄関は二つ、その左側の扉を開けてその状態のまま中へと連れ込まれる。せめて靴を脱がせてくださいよ!
「ちょっと待って、ここはいったいどこなんです!?」
真っ白なソファーにボスッと乱暴に落とされ、起き上がり体勢を整えながら周りを見る。どう見ても高級マンション、それも真っ白な家具で統一されている。
白極さんの名前のようだと感じたが、彼には白ではなく黒が似合いそうだと思ったのは言わないでおく。
「今日から|凪弦《なつる》にはここに住んでもらう」
「……は?」
相当間抜けな声が出たと思う。だってこの部屋ってどう見ても……
「ここに住んでもらうって言ったんだ。|長谷山《はせやま》からちゃんと話は聞いてるんだろ?」
|白極《はくごく》さんにそう言われて、もう一度部屋の中をぐるりと見てみる。そんな事をしても、今見えている景色が変わることは無いのだが。
何もここが高級そうなマンションの最上階だからと言って驚いている訳じゃない。ここに住みたくない理由も、もちろんそれじゃない。
「……でも住んでますよね、ここにはすでに他の誰かが」
もちろんシェアハウスという可能性もある。リビングだけでこれだけ広いのだから、何人かで暮らしても余裕でしょうし。これが長谷山先輩の言っていた社員用の寮ならば十分だとも思う。
「住んでいたら、何か困るのか?」
私が戸惑う理由が分からないと言わんばかりの白極さん。彼に何と返事をしていいのか分からなくて、奥の椅子に脱ぎ捨てられたであろうワイシャツとネクタイを眺めていた。
「……ですが男性、ですよね。ここに住んでいらっしゃるのは」
このリビングに散らばっているのもは、どう見ても男性の持ち物だ。ここに女性が暮らしているような雰囲気は全く感じない。
それにこの持ち物の主も大体想像はついていて……
「そうだな、それがどうした?」
……年頃の女性にいきなり男性と寝食を共にしろと? もし何か間違いでもあったらどうするつもりなのか、ちゃんと考えていますか?
「……白極さんですよね、ここに住んでるの」
「俺のマンションなんだから、俺が住んでて当然だろ?」