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1.信号待ち
ヨークシンシティのビルの狭間は、多くの人が行き交っていた。
正午過ぎ、ランチを採り終えたオフィスワーカーたちの群れが、オフィス街のビルの中に収まりつつあるなか、遅いランチを求める人たちが出てきて、歩道も車道もせわしない。
多くの人がすれ違い、活気溢れるヨークシンシティの一角、横断歩道の前で、クラピカは他の通行人と同じように赤い信号機が青になるのを待つために立っていた。
警戒態勢に伴った殺気が漏れないよう、慎重に自身のオーラを調整する。
肩も触れんばかりの人に囲まれている中、自身の殺気立ったオーラを剥き出しにしてしまえば、群衆が軽くパニックになってしまうだろう。日もうららかな、日常のオフィス街で、勤め人達を不必要に怖がらせることはしたくない。
ーーしかし。もしここで戦闘になったら、この群衆を利用させてもらいたいところだ。
そう、一瞬思った。
その一瞬の思考を振り払い、自分の都合と周りの見ず知らずの人たちの命を天秤に掛けたことを自覚したクラピカは、すぐに別の選択肢へと思考を巡らす。
横断歩道を挟んだ向かいに、同じく信号待ちをしている人たちの中に、クロロ=ルシルフルが立っていた。
黒いパーカーに、黒いジーンズ。前髪を下ろした額には、十字の入れ墨があるはずだが、それは今、軽く巻かれた白い布によって隠されていた。
人畜無害の一般人のように、ヨークシンシティという背景の一部に溶け込んだ、まるで存在感に乏しい姿は、木の葉に擬態する昆虫を思わせる。だがその視線は静かに、そして明らかにクラピカを捉えていた。
信号が青になる。
人並みが流れ出す中、クラピカはその場を動かなかった。
ここは、あまりにも人が多すぎる。
軽く手を上げれば人と当たってしまう、そんな場所での接触は避けたい。そう思って踵を返そうとした時、
「そんな風に突っ立ってると、邪魔だよ」
眼の前に、クロロが、いた。
黒いパーカーのファスナーの、ロゴが読める程の至近距離から見下され、クラピカは息が止まった。
念を封じているはずだ。
ジャッジメントチェーンはまだ抜けていない。
身体能力としてのアドバンテージは、念能力を使用できるクラピカの側にあるはずだ。
それなのに、クロロはクラピカの想定の外から、距離を詰めてきた。
油断をしたつもりはない、視線も逸らしてはいない。それでもクラピカは、クロロがどうやって横断歩道の向かいから、目の前まで来たのかがわからない。背筋を冷や汗が伝うのを感じるまま、数歩下がった。
ピー、ピー、ピー、と青であることを伝える信号機の長閑な音が聞こえてくる。
「渡らないの?」
背後に向かって軽く目線をやって聞いてくるクロロに、クラピカは今ならダッシュでこの横断歩道を渡れるだろうか、と埒もないことを考えた。
この男の横をすり抜け、全速力でヨークシンのオフィス街を走って逃げる自分を想像しながら、クラピカはクロロの背後で信号機が赤になるのを視界に収めた。
「……全く渡らせる気がない動きをしておきながら、なんだその質問は」
ドスの効いたクラピカの声色に、クロロは肩をすくめて、軽く首を傾げた。
先ほど、横断歩道を一瞬で渡って来た後から、クロロはずっと隙だらけだ。今なら緩慢に蹴りを入れたとしても、あっさり脛を殴打できそうだった。
「あんまり殺気立ってたから、とりあえずその気を挫いてやろうと思って」
その目論見は、完璧に達成されていてクラピカは、忸怩たる気分になった。
クロロだけを警戒していたわけではない。
むしろその逆だ。
念能力が使えないクロロと、正面から戦闘になる可能性は薄いとクラピカはみていた。
あるとすれば、クロロに気を取られている隙に、他の念能力者から攻撃される可能性。こちらの方が断然高い。クロロはもちろんだが、周囲に対しては、より警戒をしていた。
それなのに、クロロに距離を詰められた時、その警戒は霧散してしまった。あの瞬間、誰かからの攻撃を受けていたら、クラピカは確実にやられていただろう。
「で、渡らないの?」
また、なんてことのない口調で同じことを聞いてきたクロロに、クラピカは思わず片眉を歪めた。
今度こそ、何を意図して聞いてくるのか、全くわからなかった。
というか、お互いの関係性、この場所、この状況、この信号待ちでの出来事があった上で、その言葉を投げかけてくる必要性や、意味や、関連性、全てが全く繋がらない。
「コミュニケーション」というものから、全く浮いている。
ーーなんだ、こいつ。
思わず湧き出た思いが、顔に出ていたらしい。
クロロは、一瞬だけ目を逸らして、半歩、身をひいた。横断歩道を車が横切っていくのが、よく見えるようになった。
「急いでないのかってこと。急いでないなら、少し、聞きたいことがある。」
「聞きたいこと。」
我ながら、随分と嫌味な声が出た。
聞きたいことがあったのは、ずっとクラピカの方だ。
どれだけ殴ろうと、命を奪うと脅しても、何一つ話さなかったというのに、今更なんなんだ、どういう風の吹き回しだ。というか、あれだけのことがあって、よくも平然と顔を出せたな。
激昂しそうになっている自分を自覚し、クラピカは努めて冷静になろうとした。
「何か仕掛けるつもりか?」
「この状況で、俺が何かを仕掛けるのは、可能性として薄いと思うが?」
「そうかな?裏で、蜘蛛ではないが念能力を持った協力者がお前にはいて、私を脅して、ジャッジメントチェーンを解除させる気かもしれないじゃないか。むしろそれがお前にとって、一番合理的だろう」
「……じゃあ、お前はなんで今、ここで俺を殺らない?それがお前にとって一番合理的だろう?」
もうすぐ冬になる。刺すような凍てつきを孕んだ風が、クロロの黒髪をなぶった。
クラピカはクロロのあまりにも気負いのない、黒い瞳を見ながら無言でいた。
その答えを言うのは簡単だ。
だが、その答えをここで口にしたくない。
一つは、それは自分の脆弱性を露呈することと同じことだから、できれば曖昧にしておきたい。
ただこれは、自分の気持の問題だから、実は、ほぼどうでもいい。
そして、もう一つは、幻影旅団の行動パターンに対するクラピカの、ある予想からくるものだった。
その完全に予想でしかないものを、本人の前で、それも今、この状況で言うのもどうなんだ、とクラピカは思って、口をつぐんだ。
クロロの指摘は、当然のものだ。
念の使えないクロロが現れる。それは、クラピカにとっては絶好の、そして唯一のチャンスだ。
クロロが除念を完了してしまってからのクラピカは圧倒的に不利な立場に置かれる。顔も居所も念能力も知られているクラピカは、クロロにとっては、見つけるのも簡単、殺すのも簡単。
よって、除念されていないクロロを探し出して殺す。合理的に考えれば、これしかクラピカには選択肢はない。
だがーー。
口を噤んだクラピカの代わりに、クロロは何かを言おうとして、やめた。
信号が青に変わって、人並みが動き出した。
「場所を変えよう。お前がつっかかってきたら、やりづらい」
「はあ?!」
「ほら、そうやって吠える。別に、気が乗らないないなら、ついてこなくても構わない」
そう言って、さっさと横断歩道を渡っていくクロロに、一瞬躊躇った。
だがすぐに、クラピカはその黒いパーカーの後ろ姿を追い、クロロの数歩うしろを距離をとって歩きはじめた。
ちら、と後ろを振り返ったクロロの目は、「へぇ、ついてくるんだ」とでも言うように、意外そうに丸くなり、すぐ前を向いた。
その後頭部を見やりながら、クラピカは眉間に皺を作る。
クロロが言った「聞きたいこと」とは何だろう?あるとすれば、一つだけ心当たりがある。
それは、クラピカの胸にずっしりと根を張っている出来事だった。