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冷蔵庫のモーターがうるさく響いていた。リビングの蛍光灯は半分切れかけていて、明かりが不安定に瞬いている。
遥は、傷んだ腰をかばってソファの端にうずくまっていた。
床に投げ出した足も、きちんと揃える余裕なんかない。
腹の奥に残る痛みが、まだ呼吸のたびに波を打っていた。
水を飲みに来ただけだった。──はずだった。
「……いい身分じゃん。深夜にソファでくつろいで、水まで飲んで」
声がしたときにはもう、気配がすぐそこにあった。
玲央菜。
冷たい缶コーヒーを片手に、ノースリーブの肩をあらわにして立っている。
目が合った瞬間、遥の背筋がひくりと反応した。
言葉よりも先に、皮膚が“構え”てしまう。
「なに、その顔。……もしかして、まだ痛い?」
乾いた音を立てて、缶をテーブルに置く。
その音で、遥の喉が鳴った。
「晃司? それとも父さん? ……どっちでもいいか。あんた、毎晩やられてるもんね」
玲央菜の声は、笑っていないのに、嘲っていた。
怒っているのか、楽しんでいるのか、それともただ“確かめて”いるのか。
遥にはもう、判断できない。
「……話しかけんな」
掠れた声がやっと出た。
言い返すというより、吐き出すに近かった。
玲央菜の目の奥が、わずかに揺れる。
それが気に障ったのか、感情が動いたのか──その判断も、やはり遥にはつかない。
「は? なに今の。……へえ。中学までは犬みたいに黙ってたくせに」
距離を詰めてくる。
遥は無意識にソファの肘かけに背中を押しつけた。逃げ場なんてないのに。
玲央菜の影が、真正面に落ちてくる。
「ほんと、喋るようになってから調子乗ってるよね? なに、“自我”でも持ったつもり?」
その声は、もう完全に怒っていた。
「いい加減にしなよ。あんたの言葉なんか、誰も聞いてないって」
「……知ってる」
ぼそりと漏れた声。
玲央菜の目が、少しだけ伏せられる。
「だったら何で、そうやって生きてんの?」
鋭かった語尾が、わずかにかすれる。
遥は視線を外した。
その顔を見て、玲央菜は舌打ちした。
すぐに取り繕うように缶を手に取り、一口飲んで、吐き捨てるように言う。
「……ほんと、つくづくムカつく」
缶が、コン、という音を立ててテーブルに戻される。
「わたしが今まで黙ってきたの、あんたの味方だからだと思ってる?」
「……違うの、知ってるよ」
「ふーん。ならいい」
玲央菜は立ち上がりかけて、ふと振り返る。
「“この程度”で泣くなよ。……あんたのくせに、みっともない」
そう言い残して、廊下へと去っていく。
だが、その足取りは静かでも、冷たくはなかった。どこか、乱れていた。
遥は動けなかった。
身体の痛みよりも、玲央菜の言葉が、ずっと後を引いていた。
玲央菜は──何を知っている?
何を見て、何を思っている?
その答えが、ただの加虐でも共犯でもないことが、遥にはうすうすわかっていた。
それがいちばん、厄介だった。