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「…あれ、菊ちゃん!そんなところで何してんの?」
「はっ…!!!」
「学校は?終わったん?」
「さ、佐々木さあん……」
「あっははは!なんや菊ちゃん、そんなわんぱくなとこもあるんやね」
「ふ、不甲斐ないです…」
「いんや、若い子らしくてええやんか。ね、お父さん」
「…そうやなあ」
「話聞いてへんわ、この人」
新聞を開きながらお茶を啜る”お父さん”をみて、佐々木さんは呆れたようにため息をついた。彼女は菊へ向き直り、今度は一転して柔らかく微笑みながらお茶を菊の前へ置いた。
「怪我してえん?」
給仕盆を机の上に置いて彼女はそう言った。自分があんな場所にいた説明を、帰っていたら滑って…なんて理由にしたからだろう。首を傾げて菊を心配そうに見つめる彼女に、ゆっくりと口を開いた。
「あぁ、大丈夫です。ご心配には及びませんよ」
「そう?ならええんよ。菊ちゃん細いからなあ、ちょっとの衝撃で折れてしまいそうで心配やわ」
「あはは、そんなことは……」
自身の膝で寛いでいる耳の切れた三毛猫を撫でながら、菊はそう微笑んだ。彼女の眉間をぐりぐりと強めに押してやれば、気持ちよさそうに喉を鳴らして体を腕へ擦り寄せて来る。そうしてゆったりと流れる時間を目を閉じて感じていた。開いていた新聞を閉じて、ふいに男性は声を上げる。
「…あれ、菊ちゃん。お前、バックどこやったんや」
「………バック?」
「あぁ、そうやねえ。いっつも肩にかけてんの、あんた今持ってえんな」
「ぁっ、あ……あぁ………」
撫でていた手を持ち上げて、菊は弱々しくそう零す。あぁ、置いてきた。というか、はじめにあの子たちに驚かされた時にどこかにとんでいったんだろう…。ため息をついて頭を軽く抱える。中に入っていたものを覚えている限りで思い出す。最悪教材は……。いや、それよりも…。
「菊ちゃん家入れんの?」
「あっ、いや……む、りですねえ………」
そういえばバックには鍵が入っていた。不運なことに、菊は一人で暮らしているので鍵が無ければ入れるわけが無い。項垂れながら、スマホを開いて”鍵屋”と検索ツールに打ち込もうとしたとき、ふと男性から声がかかった。
「やっぱりな。なら、今日はとりあえず泊まってくか?」
「………その…お願いします……」
鶴の一声だった。打ち込む直前、財布も持っていないことに気付いて己の愚かさに頭を抱えるところだったのだ。申し訳なさもあるが、今ばかりは好意に甘えようと苦笑を漏らしてそう言った。軽く「おう」と返事を返した男性と反対に、佐々木さんは黄色い声を上げた。
「まっ…本当?やだ、こんな若い子泊めるなんて久しぶりや!
菊ちゃん、息子の部屋使うてくれる?今片付けるさけ」
言いながら、ふくよかな体をせっせと動かして彼女は2階へと上がっていった。それを心配そうに目で追って、また膝の猫へと意識を戻す。欲に従順な彼女は、もうとっくにすやすやと寝息を立てていた。愛おしそうに目を細めながら、仄かに鳴る風鈴の音に菊は意識を向けた。
「……菊ちゃん、ご飯食べといてね」
「…あっ、すいません……そんなに寝てましたか…」
「いいんよ、疲れてんねやろ。足りなかったら炊飯器から好きなだけ持ってってええから
わたしはもう寝るからね、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
もうすっかり暗くなってしまった外をみて、思わず菊は声を上げた。膝にいた猫もいなくなってしまっている。とりあえず、ご飯を食べようと縁側から腰をあげると、外から何か音が聞こえてきた。
__ワン!
それに振り返れば、真っ暗闇の中かすかに光る双月があった。おそらく彼だろう。なにかを待つようにこちらを見つめて動かない彼に疑問を持って菊は外へ足を踏み出した。生垣の向こうにいるそれは、何かをくわえているように見えた。しかし、あまり夜目の効かないままでは確証は持てなかった。恐る恐る近付いて手を伸ばすと、フワフワした感触が菊の手に触れた。
「わ、……わわ…」
グル、と彼の喉から仄かに聴こえた音は無視して頭を撫で続ける。膝にいた彼女もとてもいい毛並みだったが、こんなに大きな毛玉を触れるのは久しぶりだった。頬を染めながらかなりの間、菊はそのフワフワを堪能していた。しかし、彼はもう耐えられなくなったのかぶんぶんと首を振って菊の手から逃れてしまった。
「あっ…あぁ……もう…」
じとりと光る瞳で彼は菊を見上げた。そしてぐいっと口元を菊へ向け、ふんと鼻を鳴らした。
「あら、これ……私の………」
「…ン」
「……まぁっ!なんて賢い子なんでしょう!あぁ、いい子ですね…かわいいかわいい……。あなたって子は本当に…はあっ…命の恩人ですよ…」
わあわあと騒ぎながら菊は満面の笑みでその犬(?)へと抱きつく。毛皮に顔を埋め息を吸うオプション付きで。感激のあまりこうなっているわけではなくて正直に言うと、言ってしまえば邪な気持ちがあったのは本音だ。こんなもふもふの毛皮に抱きつき、堪能できるのは今しかない。これでもかというほど頭を撫で、体を撫で、「かわいいかわいい」と繰り返していると、またしても彼は耐えられなくなったのかキャウンっと声を上げて菊の腕から抜け出し、森へ駆けていってしまった。「あぁ……」と落胆の声を漏らして、菊は肩を落とした。落ち込んだ心境のまま、さっきまで座っていた縁側へ再度腰を下ろしてバックの中をスマホで照らす。鍵はある、財布もある、教材も…おそらく揃っている。また違う意味で肩をなでおろし、縁側へ倒れ込む。その流れで空へ目を向ければ、浮かんでいたのは満月だった。ふと記憶を辿る。
「……そういえばあの子…あの狼に似ていたような…
………気のせい、かな…」
輝く満月があの2匹の瞳に重なったのだ。偶然か、はたまた彼も妖の類なのか。そうだとしても、菊から触れられることに驚きはしていたものの強く拒否している訳ではなさそうだった。こちらに敵意がある訳でもない。ならば、別に構わないのだ。元来、外つ国と現世の境界は交わらないものだ……刃を向けあうことがない方が、理に沿っているだろう。黒曜の瞳を閉じて、蛙の声を耳で読む。それに交じって遥か 遠くで聞こえるあの少女達の笑い声に頭をふるった。