テラーノベル
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良い天気、だ。自室の窓を開けて空を見上げれば、広がるのは雲ひとつない青空。息を深く吸うと夏の匂いを感じる気がした。
「…あ、お弁当」
スマホを取り出して時刻を見た途端、そう思い出す。そういえば昨日なにも用意しておかなかったんだった。はあ、とため息をついて布団から這出る。作る時間も気力もないし、途中コンビニで買っていくか、と思案して妥協することにした。とりあえず制服を取り込もうと下へ降り、庭へ繋がる障子を開ける。すると…
「あら…あなた、なんでこんなところに?」
物干し竿の近くで白い犬が身を丸めて眠っていたのだ。昨夜見た彼で間違いないだろう。じり、じりと近付くとそれに気付いたのか彼はぱっと起き上がってしまった。昨日は暗くて見えなかったが、確かにこの白い犬はあの狼に似ていた。月の光のような銀色の毛皮に鋭い瞳。目の色は限りなく茶色に近いワインレッド、といったところだった。そこだけが違うが、仄かでも赤色が混じっているのはアレに似ている、と言っていいだろう。今日もなにか持ってきたのだろうかと口の辺りをみるが、ものをくわえているわけでは無さそうだった。ぶん、とかすかにしっぽが風を切る音がして、そちらに目線を向ける。
「…遊びたいんですか?」
「……」
「なら、そうですね……あ、丁度いいところに…」
足元に落ちていたそれなりの大きさの木の枝を手に取り、ポイッと遠くへ投げる。すると座っていた腰を上げて彼はそれへと駆け出していった。土煙が起こるほどの勢い。ズサーッと大きな音を立てて、彼は見事木の枝をキャッチしたようだった。尾を楽しそうに振りながら、器用に木の枝をくわえて彼はこちらへ駆け戻ってくる。ぐいっ、と菊の手の方へ鼻を押し付けてくるのはもう一度投げろという意味だろう。利口な彼から受け取って、先程よりもっと遠くへ思い切って投げてみる。枝は大きな弧を描いて遠くへと飛んでいく。空を裂き、風を切ってそれは大きく…
「あっ、しまった」
バシャンッ!!
水音、そして跳ね上がる泥。投げすぎた、のだ。それは菊の敷地を越え、垣根を越え、隣の水田まで飛んでしまった。運が悪いことに今は水を張ったばかりで、そこが乾いている訳もなかった。それから結び出される結論は…
「…うわっ、あなた真っ黒じゃないですか!!」
お察しの通り、白い犬の姿はそこには無かった。水田に突っ込んで、真っ黒に濡れて変わり果てた姿しか見つからなかったのだ。しかし当の本人は気にしていないらしく、依然楽しそうに瞳を輝かせて笑っているように見えた。
「派手にやりましたね……まあでも、投げた私に責任もありますし、仕方ありません…
少し水で流しましょうか、おいで」
ぽんぽんと自身の腰あたりを叩けばそのジェスチャーの意図を読みとったのか、はたまた人間の言葉が理解できるのか、彼は歩みを進めた菊について行き始めた。ホースを右手に持って、繋がっている水道の蛇口を捻る。かなりの勢いのまま、真っ黒な犬へそれを向けた。
「!!ワンッ!」
「あぁはいはい、楽しいですか?ホント、やんちゃですねえ、あなたは」
水を嫌がることもなく、逆に楽しんでいるようなので心底安心した。このはしゃぎ具合ならば菊が手を貸さずとも自然と泥は落ちるだろう。5分ほど水を浴び続けたところでもうすっかり毛皮の色は元に戻り、どうやら跳ねる水滴を追いかけ回すのにも飽きたらしい彼をみて蛇口の栓を閉めた。水を長い毛に滴らせながら彼は跳ねながらこちらに向かってくる。しかし、突然足をバッと開いて彼は顔を下に向けた。
「…あっ、あっ…もしかして、アレやります?アレ……やりますか?」
はっと息を飲んで、菊は胸の前で腕を組む。確かに実家でも犬を飼ってはいたが、あんなに大きく、それもそれほどの長毛種ではなかったのでおそらく彼とは異なるはずだ。水に濡れた犬科が、動きを止めてするものといえば。
ぶるんっと彼は体を降るって水滴を体から吹き飛ばした。彼の大きな体から繰り出されるそれは力強く、数m離れていた菊にもその水滴が飛んできたほどだ。それを嫌がることもなく、なにかアイドルでも見たかのように菊は歓声をあげていた。ぱちぱちと大袈裟に拍手をした後、いつ取りだしたのか大きなバスタオルを彼の体へとかける。
「ふふ、いいですねえ…なんだか夏って感じです」
体や顔を大体拭き尽くして、菊は立ち上がった。楽しそうに頬を染めて立ち尽くしていた彼のシャツの裾が、ふとくいっと引っ張られる。
「…ぐるる」
「あらあら、まだ遊び足りませんか?」
可愛らしい素振りでこちらを見上げる彼はどこか物足りなさそうに見えた。遊んであげたい気持ちは山々だが、そろそろ学校へ向かわなければ本気でマズイ。「ごめんなさい。また遊びましょう」と言って、まだかすかに水気を帯びている彼の頭を撫でて居間へ上がった。
2階の自室からバックを持って来て、買ってあった麦茶のペットボトルをひとつ手に持つ。玄関へ出るところで、先程までの暑い日差しを思い出してハンディファンを一応バックの中に突っ込んでおく。やっとのことで家を出た時、まだあの白い犬は物干し竿の近くにいたのだ。
「…ふふ、気に入りましたか?」
「…………」
「もしあなたが私の言葉を理解できるなら聞いてくださいね。
18時以降…そうですね、日が沈みかけるとき、それ以降なら来ても構いませんよ。遊んであげますし、なんならご飯も出してあげましょう」
その言葉にぴくっと彼の耳が動く。
「……まあ、食い意地がはってること」
「ワンっ」
「あぁいや、褒めてるんですよ、褒めてます。
…………賢い子ですね」
くるくると小鳥のような鳴き声を喉から出して、菊の手へ彼は擦り寄った。そんな仕草に離れ難い気持ちを抑えながらもスマホの通知で取り戻した意識をそのままに、菊はあぜ道へと駆け出していった。
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