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日下部は、来なかった。
理由は知らない。
聞いてもいないし、誰も教えてくれるわけがない。
ただ、朝のうちから教室の空気が妙に軽くて、うすら笑いが浮かぶ頻度が高かった。
その時点で、遥にはもう、わかっていた。
(……今日は、やるんだな)
それだけのことだ。
自分が教室にいる意味なんて、もうそれしかない。
最初に机を動かしたのは、男子の一人だった。
「ステージ作ろうぜ」とも言わない。
ただ机をどける。
その動きに、何人かが無言で加わって、数分後には教室の中央に妙な空間ができていた。
「おーい、メスいぬ、出番だってよ」
軽い声。
冗談のような口調。
(またか)
遥は立ち上がる。
いや、立たされる前に、自分で立った。
押されたり、叩かれたりしなくても、どうせ同じ。
だったら早く終わらせた方がいい。
「昨日のセリフ、また言ってくんない?“お願いだから”ってやつ、超ウケたし」
「てか、マジで好きなんでしょ? 日下部のこと」
その名が出た瞬間、背筋が一瞬だけ強張った。
それだけ。
それ以上は何も反応しなかった──つもりだった。
でも、それが“わかりやすい”と見えたのか、笑い声が一段、強まった。
「うわ、効いてる効いてる! やっば、ガチ恋じゃん!」
「え、なに? “あたしの王子さま”みたいな? キモッ」
女子の声。
男子の笑い声に乗っかるように、わざとらしく甲高く響いた。
(ちがう。……そういうのじゃない)
けれど、言い返す気力はなかった。
いや、初めからなかった。
否定なんて意味がない。
「違う」と言えば、「じゃあどうなの?」と嗤われるだけだ。
「触るな」
誰にも聞こえないくらいの声で、そう口の中で言った。
それは誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからない。
誰かがシャツの背中に手をかけた。
裾がめくられ、皮膚に空気が触れる。
(日下部、今日いねえのかよ……)
ほんの一瞬、そう思ってしまった自分が、いちばん情けなかった。
別に、あいつがいれば助けてくれるなんて思っていない。
それでも、
“ただ見ていてくれる”
それだけの存在が、遥にとっては意味を持っていた。
「おまえさ、あいつに媚び売るのやめた方がよくね? 見てて吐き気すんだよ」
「どーせ勘違いしてんでしょ。“俺のことわかってくれるのはアイツだけ”とか。きっしょ」
「てかさ、日下部が来ないのって、おまえのせいなんじゃね?」
その言葉には、反応してしまった。
ほんのわずか、視線が動いた。
それが“効いてる”合図になることもわかっていたのに──動いてしまった。
「やっべー、図星かよ〜!」
「キモいとか思ってたんじゃね? おまえのこと。重すぎてドン引き、みたいな?」
遥は、何も言わなかった。
言えなかったんじゃない。
言ったところで、何にもならないと、最初からわかっていたから。
ただ、胃の奥に冷たいものが沈んでいくのを感じていた。
胸のあたりが少しだけ焼けるように痛かった。
それだけだった。
チャイムが鳴る。
授業が始まる。
教師が入ってくる。
誰も何も気にしない。
遥は、めくり上げられたシャツを直すこともできず、机に戻る足が少しだけふらついた。
でも、それも誰も見ていなかった。
今日、日下部はいない。
誰一人、見ようとする人間はいなかった。
(別に……慣れてる)
そう思いながらも──
日下部の空席だけは、二度と見ようとはしなかった。