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天才過ぎるンゴ
絶望には案外エネルギーがいるのだと、幼いつぼ浦は初めて知った。
ステンドグラスに描かれた色とりどりの聖母マリアが美しい影を落としている。七色のそれにつま先がぶつかって、慌てて長椅子の影にしまいなおす。膝のうらにジワリと汗が出ていた。座り込んで、もうどれほどになるのだろう。
それでもつぼ浦は教会の隅でじっと動かなかった。高い天井の教会はピカピカ輝く金色の十字架を祀っている。小さなチリが採光窓の日を浴びて祝福のように信者の側に落ちていく。十かそこらのつぼ浦は、それを老犬のような目で見ていた。疲れはてて、美しい光景にため息をつく力もなかった。
このまま消えてしまいたい、と膝に顔を埋めた瞬間だった。
甲高い破壊音。
降り注ぐステンドグラスのかけら。無骨で大きくて信じられないくらい真っ黒なバイクのタイヤ。太陽と青空を背に、無法者がぎゃりぎゃりブレーキ音を響かせ教会内に侵入する。それは火花を散らしながら、ちょうどつぼ浦の前で止まる。
「よお、迎えに来たぜ」
背の高い黒人だった。見てくれは外国人なのに随分流ちょうな日本語を話す。火薬の匂いがする男は、緑のジャケットを靡かせつぼ浦に手を差し伸べた。
「だ、誰?」
「話はあとだ! 追われてるんでな」
「えっ」
ゴツゴツした手がつぼ浦のTシャツをぐっとわしづかみして、ものすごい勢いで引っ張り上げる。化け物みたいなエンジン音が響いて、横向きにGがかかった。バイクが教会の中央を我が物顔で通り抜ける。ダダダダダ、と今までいた場所に銃弾が撃ち込まれた。悲鳴と怒鳴り声が四方八方から聞こえて、つぼ浦は男の腹に必死にしがみついた。
「おっとまずい! つかまってろよ!」
「ぎゃーっ!」
バイクが前輪を浮かせてさらに加速。教会の門をくぐって間一髪、爆発音が響いた。
振り返れば真っ赤な炎が十字架を包んでいた。
黒い男はこぶしを突き上げ口笛を吹く。マリオカートみたいに無法な運転だった。ラジオからRamonesの“Do You Remember Rock and Roll Radio?”が爆音で流れていく。
つぼ浦少年の心臓が高く、強く鼓動を刻む。頬は薔薇色に染まっていた。もう怖くはなかったが、男の腹にぎゅっと抱きつく。
つまるところ幼いつぼ浦は、この中学生の考えたカッコいいおじさんの具現化にまんまと心を奪われてしまったのである。
バイクは公園で止まった。穏やかな木漏れ日に野良猫が腹を出して昼寝している。石造りの道に老人と子供が行き来する日常に、不似合いな男が「よーし」と背伸びした。
「ガキ、怪我ねえか?」
「首いてーです」
「よし、ないな。家帰るぞ」
「首痛いって! それに、そもそも誰っすか」
「あ? 覚えてないのか」
「知らないです」
「叔父だよ、叔父。わかるか? お前の、お母さんの弟」
「叔父ぃ? 正月でも見たことないぜ」
「十年は帰ってないからな」
「じゃあ俺生まれてないです」
「アレェ? お前あれだよな、匠。何歳?」
つぼ浦少年——もとい匠は頷いて、「ちょうど十」と答えた。叔父はしばらく顎をさすってから「あ、あれハトコか」と小さくつぶやく。
「マ、まちがえなかったからセーフだな!」
「うん。あの、叔父さん」
「ん?」
「名前何?」
「勲」
「苗字は? 漢字は?」
「お前とおんなじ苗字だよ。漢字は~、動くって習った? それに点四つ」
「つぼうらいさお」
「そう」
「ふーん。あのバイクは?」
「人から借りてきた」
「追われてたってのは?」
「借金取り。金なんか借りるもんじゃねえなまったく」
「ごめんなさいした方がいいと思うぜ」
勲は匠の頭をぐりぐりと撫でる。母とも父とも違う、大きくて荒々しい手だ。
「そうだな、そのうちな。お前は借金するんじゃねえぞ」
「おう」
「俺からも質問するぞ。何であんな所にいたんだ?」
「……」
「答えたくねえならいい。が」
ふと、上から押し付けるような風を感じた。ぱたぱたぱたと叩くような音が近づいて、それは顔を引っぱたくような轟音になる。
大きな影が匠と勲をゆっくりと覆った。
「ヘリコプターだ!」
「もう追いついてきやがった! 逃げるぞ匠ぃ!」
担ぎあげられる前に、匠はバイクに飛び乗った。勲がハンドルを握り、猛スピードを出す。
「自爆覚悟だなありゃ」
「叔父さんいくら借りたの!」
「リボ払いで膨れ上がって、元の数なんか関係ねえのさ!」
「あっ右!」
「頭下げろ!」
ヘリの扉から構えられたのはM3サブマシンガンだった。現代日本で見たこともないグリースガンのような筒は、しかし匠に死を予感させるのには充分だ。
勲が急ブレーキをかけたと同時、サブマシンガンから弾が吐き出される。追い詰めるように、400発/分の銃弾がばらまかれコンクリートに焦げ跡をつけていった。再度アクセル。猛スピードで左右にバイクが揺れる。被弾を少なくするため、勲は匠を抱え込んで身を低く保った。
「叔父さん、血!」
「軽傷! だ、がっ」
かすった銃弾は今度こそ照準をあわせて、バイクのタイヤを的確に破壊した。横倒しにクラッシュする寸前、勲が匠を抱え込んで道路に身を投げる。2回、強くコンクリートに打ち付けられて二人はボールみたいに転がった。
「い、だだだ……。た、くみ、怪我、無いか」
「打ち身がひっでえぜ」
「元気だ、な」
匠の頭がくしゃりと撫でられると、だらりと生暖かい何かが垂れて顔を濡らした。ぬぐえば真っ赤な血が手の甲にべたりと付く。勲の血だ。勲は信じられないほど出血して、ひゅうひゅうとか細い息をしていた。匠をかばった傷だった。
「よし。そのま、ま、下がってな」
「で、できるかよ」
「安心、しな」
鮮やかな血が広がっていく。瀕死の人間らしく体が震えていた。それなのに、勲はくっと頬を持ち上げ不敵に笑う。あ、と匠は思った。カッコいい大人だ。少年の心を握って離さない憧れだ。吹き抜けるような一陣の風で、どんな爆発よりも強い衝撃だ。
「俺は、死なねえ」
まっすぐな強い光を宿した瞳に、匠は脳みそから脊髄まで電流が走った。世界で一番カッコイイものを見つけてしまった。いうなれば、グっと来てしまったのである。
少年が世界で一番カッコいいを見定めたなら、次にするべきは決まっている。
匠は勲の腕の中をもぞもぞ抜け出して、ばっと両腕を大きく広げた。黒服の男が五人、勲と匠を取り囲んでいた。誰もかれも武器を持っていたが、すぐに撃つ気はないようだった。「僕、ご家族かい」と優しい声までかける始末である。
「親戚だぜ」
「おい匠、なに、して」
「そうかそうか。そのおじさんは悪い人でね。お兄さんたちも怪我をさせたいわけじゃなかったんだよ。こっちに来れるかい」
「いいぜ」
「匠、まて、そ、いつらは」
「いい子だねえ、匠っていうのかい。歳は? お家はどこだい?」
「……」
「送ってあげようね、ほら。お父さんやお母さんもお家にいるのかな?」
「お前ら、つながってないな」
「え?」
「特別じゃない。叔父さんとちがって」
「あ、ぢ」
「あれと繋がってないぜ」
匠は上を指さした。同級生を殺し、物言わぬ人形にしてしまった言葉だった。黒服の男たちは全員上を向いて、白目で泡を吹き始める。そのまま、カクンと膝から崩れ落ちるのである。
「お、まえ、なにした?」
「叔父さんの真似。カッコよかったから!」
「な、なんだ、そりゃ……」
「叔父さん、こっからどうすりゃいいんだ! 叔父さん!」
勲はかくん、と気を失った。真っ暗な世界で、「寝るな、寝たら死ぬぞ!」とわめく匠の声が聞こえた気がしたがまあ気のせいだろう。「死なないで」なんて殊勝な言葉をもらえるほどろくな人生は送っていないので。
自業自得のろくでなしが気を失ったあと、匠は一生懸命頑張った。黒服から携帯を漁って(叔父は財布すら持っていなかった)、救急車を呼び、近くの大人に助けを求めた。十歳の子供ができる最大限を行ったのだ。
匠は病院へ搬送される勲にくっついて、体温を分け与えるようにずっとそばに居た。救急隊の壮年男性が泣くほど健気で、運び込まれた緊急手術室を瞬きもせず見つめていた。迎えに来た両親にはものすごく心配され、特に母は手術後の麻酔で寝ている勲をぶん殴っていたが、まあともかく。匠はそれはもう褒められたのである。両親は好きなものを作ってくれたし、学校では校長先生直々にお褒めの言葉をいただいた。警察に表彰までされて、台の上で「叔父さんのお見舞い行きたい」と呟けば拍手が起きた。とにかく人に囲まれよしよし撫でられあらゆるものを貰ったのである。
が。
勲はまだ目を覚まさない。匠は飽きもせず毎日病院へ見舞いに行った。白い病室の壁に勲の似顔絵やら折り紙やらが増えていく。
1番欲しい言葉を、勲ならきっとくれると思ったのだ。
勲は目を覚ました。真っ白な病室は静かで、ナースも医者もいない。痛む体を起こせば、匠の丸く小さな頭が見えた。
「よお……」
思ったよりもガサガサした声が出た。
「! 叔父さん! 起きたの」
「おう、ゲホッ」
匠は慌てて飲んでいたりんごジュースを渡す。本来医者の許可が必要なのだがまあ丈夫で適当な男だ、勲はストローを外して流し込むように一気に飲んだ。「あ゛ーっ」とおっさんっぽく息を吐く。
「んん、あー。助かった」
「うん。叔父さん、三日間寝てたぜ」
「おー、そりゃ随分だな。お前は?」
「お見舞い」
「殊勝だな」
「心配だったから」
勲が思い出したように「あっ」と声を上げる。
「そうだそうだ。おいクソガキ。耳貸せ」
「なに?」
「いいから」
サイドテーブルを漁って、勲は金色のジッポライターを手に取った。シャキン、と炎を揺らめかせ、入院着に着いていた安全ピンを炙る。
匠はジッポライターが綺麗だったのでそれをじっと見ていた。手渡され、蓋を開けたり閉めたりして楽しむ。
何でもないように、勲が匠の耳たぶを触った。
「動くなよ」
よく冷まされた安全ピンが、匠の耳たぶにぴっと穴を開けた。
「っ」
痛みは一瞬だった。声を出す前に熱が引いて、狐につままれたような気持ちになる。
勲は自分の耳からピアスを外して、匠の右耳につけた。銀色の輪っかが幼い耳にぶら下がる。きちんと針が通っているかピアスを揺らして確認した後。
「こンの馬鹿!」
と低く、信じられないくらいでかい声で怒鳴った。
「言うこと聞かず前に出やがって! 武器も見えただろ、怪我どころか死ぬかもしれなかったんだぞ。反省しろクソガキ!」
「だ、だって」
「だって!?」
「お、叔父さん、が、カッコよかったから、真似したくて」
匠の小さな肩がひくひくと震え、目から涙がこぼれた。鼻をすすって、なんとか声を上げないで耐えようとしている小さな子供を、勲は優しくなでた。
「……それでも。お前、辛かっただろう」
匠が驚いたように顔を上げ、しゃくりあげる。その通りだった。たくさんの大人に褒められて見ないふりをしていた心の痛みがぎゅっと胸を締め付ける。真っ赤な顔がぐしゃりと歪んで大粒の涙がボロボロこぼれていく。
勲の大きな手が背中に移って、とんとんと優しくリズムを刻んだ。匠は勲の肩に縋り付いて、まるきり小学生のように泣きながら頷いた。
「人間をどうこうしちまうってのは、した方のが辛い。特にお前みたいな奴にとってはな」
「つ、らかった。怖かった」
「そうだな。お前自身を怖がらせるようなことは、二度とするな。いいな」
「うん」
「約束だ」
「う゛ん」
えんえんと匠は泣いた。顔から出る汁が全部出るほどの号泣に勲はちょっと笑って、袖で涙をぬぐってやる。ぐにぐにしたやわらかい頬が、匠がまだ十歳の、幼い少年であること示していた。
小指と小指を絡めて、歌う。
「……俺が約束破ったらどうすんの」
「あー、そん時はもう片っぽのピアス明けに来てやるよ」
「俺がとんでもない大悪党になってたら?」
「そん時はお巡りにでもなるさ。それで、今日みたいに叱ってやる」
互いの人生を変える約束だった。匠も勲も、それに気づかず笑う。
勲がタバコを咥えたので、匠は見よう見まねで火をつけた。ジッポライターは子供には扱い難かったがだからこそ特別に思えた。
「それはそれとして助かったがな。何だったんだあれ?」
「どれ?」
「借金取りどもが急に座り込んだ、あれ」
「俺も知らねえ。でも、みんなああなるんだ」
匠は勲にコアラみたいに抱きつきながら、「叔父さん以外」と顔も見ずに言った。
「へえ、じゃ、お前今まで寂しかったな」
「うん」
「もう大丈夫だ」
「うん」
火災報知器が鳴り響いて、むちゃくちゃナースに怒られる前の一幕である。
海が見える駅だった。
カンカンカンカン、と赤の警告音が鳴り響く。滑るように赤い電車が通って、ごおっと風と共に海を遮る。
少し背の伸びた匠はそれをじっと見ていた。よく切りそろえられた髪がばっと揺れる。あれから三年、十三歳になった。手足はまだ伸びそうで、日に焼けた肌に覆われてエネルギーを持て余してウズウズしている。
電車の最後尾が駅を走り抜け幕が上がるように、また海が見える。
夏。走行音に負けていたセミの声が帰ってくる。ラジオからRamonesの“Do You Remember Rock and Roll Radio?”が流れ出した。
無人駅に一人。だが、匠はワクワクしていた。もうすぐ叔父が帰ってくる。ハワイから、匠へ喧嘩を教えに。
携帯電話を買ってもらったから、連絡先を教えてほしい。久しぶりに沢山話したいし、何をしていたのか聞きたい。
あどけない顔に不釣り合いなほど、匠の瞳はキラキラと輝いていた。あの日みた憧れが火をつけたのだ。
世界で一番カッコイイを知った少年は、世界で一番カッコイイ男になる。具体的には、十年後くらいに。