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#病み
ゆう²

247
yuki
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8
第2章:一瞬の衝動と空白
裸足のまま玄関を飛び出した結衣の足裏に、容赦のない現実の感触が突き刺さる。アスファルトのざらついた冷たさ、小さな石ころが皮膚を圧迫する鈍い痛み。 しかし、今の結衣にとってそんなものは些細なノイズに過ぎなかった。
「結i((! ま……い((! どこへ((……の!」ザッザッ
背後から追いかけてくる母親の叫び声。それは歪んだ電子音のようにひび割れ、結衣の背中を猛烈な勢いで追尾してくる。
夕暮れの住宅街に響き渡るその声は、近隣の住民たちの好奇の目を集めるには十分だった。窓を開けてこちらを覗き込もうとする人影、通りすがりの高校生の怪訝な視線。世界中のすべてが、結衣を糾弾するための包囲網のように思えた。
(来ないで。追ってこないで。もう私の名前を呼ばないで!)
結衣は喉の奥からせり上がる悲鳴を必死に噛み締めながら、ただひたすらに足を動かした。肺が焼けるように熱く、酸素を求めてひゅうひゅうと悲鳴を上げている。
心臓は肋骨を内側から叩き壊さんばかりに激しく脈打ち、こめかみの血管がドクドクと不快なリズムを刻む。
彼女が向かったのは、自宅から数分ほどの距離にある、古びた5階建ての雑居ビルだった。1階には色褪せた看板を掲げた学習塾が入り、上層階は物置や空き部屋ばかりの、普段から人通りの少ないうらぶれた建物。
結衣は以前、偶然このビルの非常階段が施錠されていないことを見つけていた。あの場所なら、誰にも邪魔されない空間があるはずだ。ビルの重い鉄扉を押し開け、結衣は薄暗い非常階段を駆け上がった。コンクリートの階段を蹴るたびに、パタパタと虚しい音が響く。
下からはまだ、母親が周囲を探し回るような、あるいはヒールの靴音が近づいてくるような幻聴が聞こえていた。
( もっと上へ。もっと遠くへ。誰も追ってこられない、音が届かない場所へ)
息を乱しながら、結衣は最上階の踊り場へと辿り着いた。そこにあるフェンスは、経年劣化でところどころが酷く錆びつき、大人の背丈よりも少し低い程度の、心許ないものだった。
結衣はフェンスに両手をかけ、身を乗り出すようにして下を見下ろした。眼下に広がるのは、いつの間にか夜の闇に呑まれつつある灰色の街並み。
行き交う車のヘッドライトが、まるで濁った川のように明滅している。クラクションの音、遠くの踏切の警報音、どこかの家庭から漏れ出るテレビの音。世界は相変わらず、結衣を窒息させるための雑音で満ち満ちていた。
ふと見上げた夜空には、星の一つも見えない。ただ、どんよりとした雲が低く垂れ込めているだけだった。
( ここも、うるさいんだ)
絶望が結衣の全身の力を奪っていく。どこへ逃げても、お母さんの声からも、この世界のノイズからも逃れられない。私の頭が壊れてしまわない限り、この拷問は永遠に続くのだ。
その時、彼女の脳裏に、先ほど自室で強く思い浮かべた
「 青い海」
の光景が再び鮮明に蘇った。
それは現実の冷たいアスファルトとは違う、優しく、すべてを受け止めてくれる深淵。波の音だけが響く、絶対的な静寂の世界。
結衣の目には、眼下に広がるアスファルトの道路が、なぜか深い、深い「夜の海」に見え始めていた。街灯の光は、水面に反射する月明かりのようだ。あそこに飛び込めば、私はあの静かな海に帰ることができる。
お母さんの声も、進路の悩みも、息苦しい毎日のすべてが、水底の砂の中に埋もれて消えていく。
「見つけた! 結衣、あんたこんなところで何してるの!?」
突然、背後の鉄扉が大きな音を立てて開き、母親の鋭い声が鼓膜を突き刺した。その声に驚いたわけではなかった。 ただ、結衣の中で、もうこれ以上この声を聴いてはいけないという、防衛本能のような冷徹な回路が作動した。 振り返ることもせず、結衣はフェンスに足をかけた。
「やめて!!!!!」
母親の制止の声が届くよりも早く、結衣の体は重力に身を委ねていた。視界が激しく反転する。落ちていく視界の中で、夜空と街の灯りがぐちゃぐちゃに混ざり合う。 風が耳元を猛烈な勢いで吹き抜け、ゴウゴウと轟音を立てた。
しかし、その風の音さえも、結衣にとってはどこか心地よい、世界のノイズをかき消してくれる最高の音楽に聞こえた。
(あ、本当に、静かだ……)
落下するわずか数秒の間、結衣は生まれて初めて本当の
「自由」
を感じていた。もう誰も彼女を責めない。誰も彼女に期待しない。そして、世界が完全に静止した。
――グシャっ
鈍く、重い、肉体と骨が破壊される衝撃音が夜の空気に溶けていく。結衣の体は、ビルの敷地内にあるコンクリートの地面へと叩きつけられていた。激痛は、最初の一瞬だけだった。
それからは、自分の体の感覚が急速に失われていくのが分かった。冷たいコンクリートの上に、じわりと温かい液体が広がっていく。大量出血。
彼女の体内を巡っていた命の灯火が、傷口からとめどなく流れ出し、地面を黒く染めていく。遠くで、母親の、これまで聴いたこともないような絶叫が聞こえた気がした。
泣き叫び、結衣の名前を何度も呼ぶ声。しかし、その声はもう、結衣の脳には届かない。まるで水の底から水面を見上げるように、すべての音が遠く、こもって、次第に小さくなっていく。
視界の端から、ゆっくりと深い闇が迫ってくる。結衣はその闇を、恐れるどころか、愛おしいものとして受け入れていた。流れ出る血と共に、頭を悩ませていたすべての
「うるさい」
が消えていく。意識が完全に途切れる直前、結衣の耳には、確かに穏やかな波の音が聞こえていた。
♡よろしくお願いします。
コメント
1件
うわ、これ…第2話でもうここまで来るんだ。読んでて息が止まるかと思った。 結衣の「静かな海に帰りたい」っていう感覚、すごく鮮明に描かれてるね。あのぐちゃぐちゃした日常のノイズから逃れるための唯一の出口として、飛び降りが「自由」に見えてしまう心理描写が痛いほど伝わってきた。最後の「グシャっ」の衝撃音と、その直後に訪れる静寂の対比が印象的すぎる。 母親の「やめて!!!!!」の一言に、全ての後悔と絶望が詰まってる気がした。続きがどうなるのか、すごく気になる…。