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土曜日の午後。
環奈は久しぶりにゆっくりとした休日を過ごしていた。
特に予定はないけれど、部屋にこもっているのももったいなくて、なんとなく外に出てきた。
駅前の商店街をぶらぶら歩いていると、雑貨屋のウィンドウに目がとまった。
(……このマグカップ、優一郎さんに似合いそう)
ふと浮かんだその考えに、自分で驚く。
(いやいや、なに考えてるの私……)
そんなことを思いながら、目線を戻したとき――
「白崎さん?」
声がして、振り返る。
そこには、私服姿の松村優一郎が立っていた。
え。
一瞬、言葉が出ない。
制服じゃない、眼鏡もかけてない、ラフなシャツとジーンズ姿の彼は、まるで別人みたいに見えた。
「偶然ですね。……あ、ごめんなさい、今は“環奈さん”って呼ぶんでしたね。」
「い、いえっ! 今のは、びっくりして……」
思わず目をそらす。
どうしよう。なんだか妙にドキドキする。
「今日はお買い物ですか?」
「う、うん。特に何かってわけじゃないけど……ぶらぶらしてたら、このお店かわいくて。」
「わかります。僕もたまにここ、来ます。」
「……あ、そうなんだ。」
沈黙。
けれど、それは不思議と気まずくはなくて。
二人とも、言葉を探しているような、そんな間だった。
「せっかくなので、よかったらコーヒーでもどうですか?」
不意に、松村が言った。
「え……あ、うん! ぜひ!」
環奈は少しだけ驚きながらも、自然に答えていた。
***
商店街の奥にある、小さなカフェ。
いつもの職場カフェとは違って、落ち着いた照明と木の香りがする空間。
「ここ、昔から好きなんです。静かで。」
「へえ……優一郎さんって、そういう場所、似合いますね。」
「そうですか?」
照れたように笑う彼を見て、環奈も思わず笑ってしまう。
会話はいつもよりゆっくり。
話す内容は、仕事のことでもコーヒーのことでもない。
「環奈さんって、大学では何を専攻してたんですか?」
「経済学部だったんです。でも、すっごく理屈っぽい授業ばっかりで、実は苦手で……」
「え、意外です。頭の回転早そうなのに。」
「いや、それが全然ダメで。むしろ、毎回落ちこぼれないように食らいついてただけで……」
ふと、昔の自分を思い出して、苦笑いする。
松村は黙ってうなずきながら、そっと言った。
「……なんか、安心しました。」
「え?」
「白崎さん、じゃなかった、環奈さんが完璧すぎたら、ちょっと距離感じるなって思ってたから。」
「……私のほうこそ。優一郎さん、ちゃんとした人すぎて、最初すごく緊張してました。」
「え、そうなんですか?」
「うん。でも、だんだんわかってきました。優しいだけじゃなくて、ちゃんと人のこと見てて、支えてくれる人だなって。」
言った瞬間、自分の頬がじわっと熱くなるのを感じた。
(あ……なに言ってるんだろう、私)
松村は少しだけ驚いた表情をしたあと、目を細めた。
「……それ、嬉しいです。」
***
帰り道、並んで歩く道。
駅までのわずかな距離が、今日はやけに長く感じた。
(もっと一緒にいたいな)
そんな言葉が、心の中に浮かんで、焦ってかき消す。
(ううん、まだ早いよ、きっと)
でも――
「また、こういう時間、もらってもいいですか?」
彼のその一言が、心をふっとやわらかくした。
環奈は、うなずくしかできなかった。
「……はい、もちろん。」
それは、恋という名前をようやく持ち始めた気持ち。
まだ照れくさくて、まだ確信もないけれど――
少しずつ、確かに近づいていくふたり。
秋の風が、そっと背中を押してくれるような夕暮れだった。
つづく