放課後の校舎は、いつもより音が薄かった。 廊下の蛍光灯がじわっと暗くなって、ピンクの空が窓ガラス越しに教室の壁を染めていく。日常が、見慣れないフィルターを勝手にかけられてる感じ。誰の仕業。いや、未来の私?知らんがな。
黒板の裏に沈んだはずの私、ユイは、足場のない“裏側”から、半歩だけ現実へ戻ってきた。指はまだ、落書きの時計の中心に触れたまま。それが、世界に繋がってる唯一のアンカーって直感が告げる。直感、たまに役に立つ。たまにだけど。
「戻ってきた?」ミナトが、窓枠から無表情で降りてくる。 「あー、戻ったっていうか、半分だけ。スープの表面に浮いてるクルトンくらいの存在感」 「例えが腹減る」 「減ってろ」
リクがドアのところで両手を広げてる。「門はまだ開いている。時間は逆流中。覚悟は、足りない」 「それ、何の台詞練習?舞台あるなら行け」 アヤネがスマホを構えたまま呟く。「空、フィルターないのに、インスタ加工みたい。こわ。ユイ、ほんとに指、離さないで」 「離したら負けムーブだから」
黒板の裏の線が、ちょっとだけ脈打つ。生き物みたい。嫌い。でも、利用する。 私は深呼吸を一回、できるだけ浅くする。深くすると泣きそうになる。泣くのは、最終回まで取っておく。そういう美学。
「で、何が始まるわけ?」私は、黒板に顔を近づけ、落書きの漢字と英字を読み直す。 「逆行」「合図」「二重」「選」「笑う」「君」。 笑う君ね。私を笑わせたいのか、私が笑ってるのか。どっちでもいいけど、笑いの質は選ばせて。嘲笑は得意だし、微笑みは苦手。
チャイムの音が、逆再生で鳴った。ゾワ。 校庭の時計の針が数字を跨ぐたびに、影が揺れて、時間のカスが床に落ちる。チョークの粉みたいに。拾っても意味はない。拾うなら、キーワードだけ。
「黒板、開け」ミナトが低く言う。命令形、似合う。 「開けるって、もう開いてる。裏側に階段がある。落書きの線が手すり。超ださいけど、機能性は高い」 リクが身を乗り出す。「俺も…行けるか」 「お前は一番行きたがってるけど、転ぶタイプ」 「転んでも進む」 「その根性は認める」
私は指を中心に置いたまま、左手で黒板の端を軽く押す。抵抗が消える。空気が、ふっと抜けた。 落書きの時計の周りの線が、くるりと配置変換して、通路を形作る。教室の床に、薄い影の階段が降りる。影なのに、踏める。物理、息してる?
その瞬間、個別LINE。未来の私。 「第一の試練:記憶の迷宮。黒板の裏へ。順番に入って。嘘をついた回数だけ、道が増える」
おい。仕様が悪趣味。 私は画面をミナトに見せる。 「ふむ」ミナトが小さく頷く。「嘘は、情報の分岐を増やす。道が増えるなら、真実に近い行動がショートカットかも」 「じゃ、正直ムーブで行く?」 アヤネが震え声で割り込む。「無理。私、朝から嘘しかついてない。起きた瞬間から『今日も余裕』って自分に言ったし」 「それは可愛い嘘。たぶん、迷宮の難易度は上がらない。…多分」
リクが胸に手を当てる。「俺は嘘をつかない。常に真理を探究する者だ」 「その自己紹介が一番嘘っぽいの、ほんと笑う」 「今は笑うな。笑えば、道が分かれる」 「え、笑うだけで分岐増える仕様?」 未来の私からすぐ返信。「増える」 は?即レス。働き方改革しろ。
私は深呼吸を、また浅く一回。みんなの顔を見る。 ミナトの目は静かで、内側に計算式が流れてる音がする気がする。 アヤネの手は震えてるけど、前髪は完璧。前髪の完璧さがメンタルの柱。 リクは…まあ、火のついてない松明みたいな存在。光る予定だけはある。
「行く。順番、私が先」 「え、ユイが?」アヤネが目を丸くする。 「当然。私の物語だから。主人公権限ってやつ」 「主人公って自称するタイプ、嫌いじゃない」 「ありがとう。好かれてなくても、進むけど」
階段の最初の段に、足を乗せる。踏み心地は、チョークの粉を固めたみたいな、ざらっとした柔らかさ。崩れないのが不思議。世界のルールが、ここでは別支配。 第二段。第三段。 ピンクの空が、下へ行くほど濃くなる。普通、上の方が明るいのに。逆回転の時間は、光の常識もひっくり返すのか。面倒くさ。
背後でミナトが言う。「ユイ、指は?」 「置いてる。中心に触れたまま進むの、割と器用さ必要。ピアノ習ってないのに」 「偉い」 「雑な褒め、嫌いじゃない」
影の階段が、突如、左右に枝分かれした。 右の方は、柔らかい光と、誰かの笑い声。私の笑い声に似てる。左の方は、静寂と、心臓の音。私の心臓じゃない。誰の。 未来の私から、また一言。「笑うと増える。選ぶのは君」
増えるの、早くない?UIが不親切。 私は右の階段の近くに体を向けて、わざと笑う。「は、仕様バグすぎ」 階段が、さらに三つに増えた。アヤネが小さく悲鳴をあげる。「やめて!」 「ごめ。テストしたかった」 「今テストするな!」 「ご指摘、真摯に受け止めます」
三つの右分岐は、それぞれ、教室の風景の切り抜きみたいな空間に繋がってる。 ひとつ目には、幼い私が描いた、雑な猫の絵。 ふたつ目には、雨の日の廊下、濡れた靴跡。 みっつ目には、黒板消しの匂い。懐かしい。嫌いじゃない。
左の静かな分岐は、透明なパネルみたいな空間に繋がってる。足音が吸い込まれそう。 ミナトが言う。「右は感情の再帰。左は情報の骨格。攻略は左の方が短い可能性」 「でも、右の方が、私の嘘と向き合う仕様っぽい」 リクが前に出る。「俺が右に行く。俺は感情と戦う者だ」 「それ、名乗り、今日何回目?」 「三回目」 「じゃ、四回目もどうぞ」
私は左を選ぶ。静寂は、私の味方。うるさい世界は嫌いじゃないけど、戦う前は静かにいたい。 一歩、踏み出す。床は透明で、足裏が空気に直接触れてるみたいに冷たい。 視界に、文字列が浮かぶ。 「嘘:’大丈夫’」「嘘:’興味ない’」「嘘:’平気’」。 はいはい、日常のパスワード。全部、私が常用してるやつ。やめたいけど、便利だから使う。便利は正義。たまに悪。
アヤネの声が遠くなる。「ユイ、こっちは猫の絵の部屋!かわいいけど、目がちょっと怖い!」 リクの声はもっと遠い。「雨の廊下で、過去の俺が…いや、これ、俺じゃない。誰だ」 ミナトの足音は、私の後ろで一定。「ユイの嘘、数える」 「やめろ。スコア化するな」 「スコア化しないと、道が無限に増える」 「理屈は正しいけど、気持ち悪さは増える」
私の前に、扉が現れる。透明な扉。取っ手だけ黒い。 「選択の予告」と、扉の上に白い文字。 「いや、予告すんな。本編で突然やれ」 未来の私がすかさず。「予算ないから前振りで稼ぐ」 「制作サイドからのメッセージ、混ぜないで」
扉を開ける。中には、教室の端っこ。昼休みの、焼きそばパンの半分。ノートの端の落書き。 さっきの、最初の一場面。コピー&ペーストされたみたいに忠実。でも、細部がズレてる。チョークの粉が甘い匂いを持ってない。秒針が逆に跳ねない。つまり、正常。 そこに、私が座ってる。現在の私が、過去のフレームの中に。ありえない。 「やあ」フレーム版の私が言う。「大丈夫?」 私は顔をしかめる。「その言い方、嫌い。嘘を誘発するから」 「じゃ、言い直す。大丈夫じゃない?」 「それは正しい。大丈夫じゃないときに、大丈夫と言うの、癖になってる」 「やめる?」 「今は…やめない。前に進むために、嘘が必要な時もある」 「正直」 「皮肉でラッピングしてるけど」
会話が終わると、フレームが割れた。透明な破片が、音もなく床に散る。道が、一本に減った。心が、少しだけ軽くなる。 背後でミナトが短く「正解」。 「採点するな」 「採点は、安心の代替物だ」 「名言風のやつ、嫌いじゃない」
右の方から、アヤネの悲鳴。「猫の目、増えた!やだ!」 「笑うと増えるから、笑わないで!」って言おうとして、笑ってしまった。くそ。 リクの声が、今度は近くなる。「俺の雨の廊下、出口が…ある。いや、ない。いや、ある。振り返るたびに位置がずれる」 「それ、迷宮の基本仕様。落ち着け」 「落ち着いている」 「声が落ち着いてない」
さらに進むと、もう一枚、扉。 今度は、黒板消しの匂いが濃い。 扉の上に、白い文字。「質問:君は、主人公?」 私は、即答する。「うん。私、主人公」 扉が、静かに開いた。 ミナトが後ろで呟く。「即答だったね」 「これだけは、嘘じゃない」 「よかった」 「…よくないけど、よい」
扉の先は、狭い渡り廊下みたいな橋。左右は深いピンクの空間。 橋の真ん中に、黒い人影。私の形。未来の私。 「よ」影が手を振る。「進み、早いじゃん。笑ってたら、もっと遅かった」 「笑う仕様、嫌い」 「嫌いなら、使いこなせ」 「説教のテンプレ、うざい」 「うざさは、真実のエッジだよ」
影は、私の前に立つ。「第一の試練、出口は三つ。ひとつは、何も失わない代わりに、何も得られない。ひとつは、嘘を一枚脱いで、傷を一つ増やす。ひとつは、仲間を一人置いていく」 アヤネの息が止まる音がした。リクが足を止めた気配。ミナトの視線が鋭くなる。 私は、影を見上げる。「三択、嫌い。二択でやれ」 「現実は、三択を好む。見落とされた選択肢が、いつも隅にいる」 「じゃ、答え。嘘を一枚脱ぐ。傷は、増えても持てる。仲間は、置いてかない。何も得ないのは、物語じゃない」 影が、少し笑った。「皮肉屋のくせに、真っ直ぐ」 「曲がって見える直進が、私の美学」
影が消え、橋の先に、出口が開く。 ピンクの空が、少しだけ薄まった。 背中に、かすかな痛み。心のどこかで、古い嘘が剥がれた。 「痛い?」ミナトが、短く訊く。 「痛い。けど、歩ける」 「そう」
出口をくぐると、教室の黒板の前に戻った。 指はまだ、中心に触れてる。ルールは維持。合図は続行。 アヤネとリクも、別のルートから同時に戻ってきた。アヤネの目は赤い。泣いた?泣いてない?嘘が一枚、剥がれてる。 リクは濡れてる。雨の廊下、ガチ雨だったのか。 ミナトは、無傷。いや、彼の無傷は、傷の形を知ってる無傷。強い。
窓の外、空のピンクがさらに濃い。校庭の時計の針が、数字から外れて、自由に踊り始めた。 未来の私から、最後の一文。 「よくやった。次は、裏切り者の話」
は?まだ誰も裏切ってない。…はず。 私は、黒板に触れた指先を少し強く押す。 「了解。記憶の迷宮、クリア。次、こい」 声は、震えてない。心は、少しだけ震えてる。揺れても、折れない。折れないように、笑い方を選ぶ。嘲笑じゃなくて、かすかな、前進の笑い。
世界は、逆回転のまま、進む。 私たちの放課後は、まだ終わらない。 終わるって言ったやつ、見とけ。ここからが本編だ。
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