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ユカリはグリュエーの助けを借りて、露台から飛び出す。家々の屋根を跳ねるように渡って、焚書官たちの後を追う。一人は炎を戴く山羊の仮面をかぶっている。チェスタだ。


焚書官たちは入り江と城壁の間を縫うように進み、ひときわ高い城壁の向こうへと消えた。


城壁の上には数人の見張りが行き来している。彼ら自身は戦を経験したことのない若い兵士たちだったが、古い英雄を讃える勇ましい歌を歌いながら歩哨の役目を全うしていた。とはいえ、それを聞いて逃げ出すような海の怪が姿を見せなくなって長い月日が過ぎている。


ユカリも、翼を傷めた天使のようにゆっくりと地上に降り立ち、城壁のふもとを忍び歩く。ここまでは、見張りの勇ましいばかりの視線も歌も胸壁に遮られて届かない。


古い時代には多くの敵を退けた壁のふもとに、うら寂れた船着き場が幽霊のように佇んでいる。三人の焚書官以外にもう一人の人影があった。そこは開けていて物陰もなくユカリはそばまで近づくことが出来なかった。しかし城壁の上からわずかに漏れた篝火の明かりで、その人物がハルマイトであることは分かった。くすんだ革鎧が篝火の揺らめきを受けて鈍く際立つ。


ちょうど今晩が取引の予定だったということだ。夜風と波音を挟んだ会話にユカリは聞き耳を立てる。


「おい、銀貨をまだ受け取っていないのだが」と波がけたたましく岸壁に打ち付ける。ハルマイトたちの会話が聞こえない。

「銀貨? ああ、銀貨ですか」ユカリは今朝のことを思い出す。そういえば海とそのような取引をしたのだった。

「ちょっと待ってください」ユカリは苛立ちつつも声を潜めて答える。「でも、あれは結局、助けられなかったじゃないですか。あの海賊は死んでしまったんですよ?」


入り江は容赦なく波を打ち据える


「それはそちらの事情だろう。私は確かに波でもってあの火を消したんだ。それが求められたことであり、銀貨が取引の条件だ。それとも約束を破るつもりなのか? 先にも言ったが、約束を破ればどうなるか」


確かにそうだ。助けてもらうことではなく、火を消すことを求めたのだった。


「分かりました。貴女の言う通りですね。でも今はちょっと忙しいんです」とユカリは囁く。「あとで払うので、ちょっとだけ静かにしてもらえますか?」


しかし波は少しも静かにすることなく何度も何度も打ち寄せた。


「分かった。分かりましたから。銀貨ですね。どの銀貨でも良いんですね。何枚でしたっけ? 十枚? ちょっと待ってくださいね」


取引を見守りつつ、ユカリは合切袋から銀貨を取り出す。大波を打ち寄せただけで銀貨十枚は強欲すぎはしないか、と思った。銀貨にもよるが一人身だと一か月は生活できる額だ、石ころ一つで同じようなことをしてくれた川もいるのに。とはいえ人を一人助ける金額としては安いものだ、助けられなかったが。既に取引は成立したのだから仕方がないと諦める。価値の低い銀貨から順に一枚、二枚と海に放り投げる。


ハルマイトが何か箱のようなものを受け取った。三枚、四枚。


代わりにチェスタが魔導書らしき紙切れを受け取った。五枚、六枚。


ハルマイトは箱から何かを取り出し、それを城壁の上からわずかに降りそそぐ篝火の明かりにかざす。七枚、八枚、九枚。


突如、ハルマイトは箱を叩き落とし、チェスタから魔導書をぶんどった。そしてどこかへ逃げてしまう。チェスタたちがあとを追い、ユカリもそれに続こうとしたが、大波が打ち寄せてユカリの体は貝殻のように軽々と押し流されてしまう。城壁に背中を叩きつけられてめまいがした。


「ちょっと! まだ何か用ですか!」ユカリは塩水を吐き出しながら言った。

「あと一枚! あと一枚!」と波ががなり立てる。

「分かりましたから! いったん落ち着いてください! もう、せっかちだなあ。いつでも払えるんですからいいじゃないですか。ちょっと待ってください、今出しますからね。……えっと、両替できます?」


できなかった。ユカリは後で払うからと言って強行的に一時的に立ち去り、「逃げるな」と言う入り江の声を聞こえないふりした。




ハルマイトと焚書官たちの追走劇はとても静かに行われているらしい。街は相変わらず静寂に包まれ、波と風の音以外には何も聞こえず、その騒動は闇に溶け込んでいる。


ユカリはグリュエーと共にふわりと屋根に飛び乗り、素早く空中を駆け抜けて、さまざまな物に話しかける。くすんだ屋根瓦、塩辛い潮風、神殿の鐘楼。


風の吹く方向に走って行った。夜に最も暗い場所に隠れていた。夜盗のように密やかだった。どうにも抽象的な答えばかりだったが、何とか場所を絞っていく。


さっき見た。そこにいた。駆けて行った。徐々に徐々にユカリは逃走者に近づいていく。


そして、とうとう暗い路地にいるハルマイトを見つけた。ユカリが屋根の上から見渡した限りでは、既に焚書官たちをまいており、ハルマイトは前後を警戒しながらもずんずんと路地を進んでいる。ユカリも辺りを確認してからハルマイトのそばに飛び降りた。


ユカリは、叫びそうになるハルマイトの口を手で塞ぎ、抜刀しそうになる手を手で抑える。


「ユカリ」とハルマイトは少し大きな声でユカリの名を呼び、慌てて辺りを見回しつつ声を抑える。「この街に来てたのか。いや、そうじゃないな。まずは、ありがとう。ヒヌアラから俺を、俺たちを助けてくれて」

「いいですよ。別に。魔導書も取り返しましたし」

「そうなのか?」とハルマイトは言った。「ああ、あの最初に盗まれたという魔導書か。取り戻せたんだな。良かったじゃないか」


ハルマイトは夜闇も照らすような屈託のない笑顔を浮かべる。


「放浪楽団の皆さんは無事ですか?」とユカリは尋ねる。

「ああ、みんな無事にこの街に着いた。その後のことは知らないが」そしてハルマイトは、はっと気づいたように再び辺りを見回す。二人の他には誰もいない。


「今はとどまっていちゃまずいんだ。急がないと」と言ってハルマイトは歩き出し、ユカリもそれに続く。

「取引はどうなりました? 万能の霊薬とやらは手に入りましたか?」とユカリはかまととぶって問いかける。


ハルマイトは手を差し出し、ユカリは何かを受け取る。それは冬の清らかな湖に張った氷のように透き通った硝子の小瓶だった。完全に密閉されているが、中には何も入っていない。透明な液体が入っているわけではないことも確かだ。


「小さな木箱を受け取ったんだが、その場で中身を検めたらそれだった。やつら、俺を騙そうとしやがったんだ」


こんなもので騙せると思うだろうか。何か別の思惑があったのではないだろうか、と思いながらユカリは硝子瓶を子細に眺める。薬が入っていないということ以外には何もおかしなところは見当たらない。


いずれにせよ取引は破綻してしまったのだ。万能の霊薬は手に入らず、魔導書のために救済機構に狙われることになる。


ユカリ自身もどうするべきか迷う。魔導書は取引の後に焚書官たちから奪うつもりだったが、取引自体成立しない可能性については考えていなかった。まさか妹の大病を癒す切り札として持っている魔導書をハルマイトから奪い取るわけにもいかない。


「これからどうするんですか?」と尋ねる他に何もユカリは思いつかなかった。

ハルマイトは行く先に警戒しつつ答える。「実は一つだけ得た情報がある。協力してもらえると助かるんだが」

「言ってみてください」


「万能の霊薬がこの世に存在しないわけではないはずなんだ。救済機構だけが製法を知っていて、信徒に分け与えているらしいからな。だから念のためにどこにあるのか聞き出したんだ。どこかの寺院に大切にしまわれているのだとすれば、それはどこの寺院なのか。だがそうじゃなかった。奴ら、本物もちゃんとこの街に持ってきていたんだ、目的は分からないけどな。今そこに向かっている」

「どこにあるか聞き出した? 彼らが素直にその在りかを話したんですか?」

「何を言ってる。忘れたのか?」そう言ってハルマイトは懐から魔導書を取り出した。


そうだった。それはあらゆる秘密を暴く魔法を有した魔導書なのだ。

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