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焚書官からじかに聞き出した以上、ハルマイトがどこに向かっているのかは完全に把握されている。先回りされる前にたどり着かなくてはならない。
ユカリたちはグリュエーの追い風と共に全力で街を駆け抜けた。
二人がやってきたのは集合住宅だ。ワーズメーズの塔群ほどではないが、最上階の八階層は見上げるほどの高さにある。また複数の棟が幾つもの通路で繋がっており、それら蜂の巣状の全体を一つの建築とみればワーズメーズの建築物にも引けを取らない巨大な構造物だ。しかし、ここに暮らすのは中層下層の市民であり、したがって彼らに貸し与えられる程度の安普請である。海の神に捧げられる灯台のように伝統的な手法を随所に取り入れながらも、見てくれの大きさの割に粗悪な煉瓦や混凝土を主に使っている。
「こんなところに本当にあるんですか?」とユカリは疑問を呈する。
「魔導書とその魔法が暴いた秘密を信じるならな」とハルマイトは答えた。
確かにそうだ。嘘はつけないはずだ、とユカリは考える。しかし救済機構という強大な組織がこのような集合住宅の一室を借りているというのもおかしな話だ。寺院も小さかったことを考えると、やはりこのトイナムの街において救済機構の影響力は小さいのかもしれない。政治的な事情か、単に布教されていないか。
「それで霊薬はどの部屋にあるんですか?」
集合住宅を見上げると、まだ明かりが灯っている窓辺もいくつかあった。
「三号棟の八〇七号室。どうやら最上階だな」
ユカリは【微笑み】と共に魔法少女に変身する。
「一度屋上に上がりましょううか」と言って、二本足で歩き始めた子供に対してするように、ユカリは小さな両手を差し出す。
ハルマイトは険しい顔で問う。「飛ぶのか?」
「飛ぶというか、吹き飛ぶというか? 空を飛ぶのも慣れたもんですよ」
それほど華麗なやり方でないのは確かだけれど。
「慣れる暇がないな。遠慮しておく。俺は階段から回り込むから先に行ってくれ」
「まあ、いいですけどね。後でお願いされても吹き飛ばしてあげませんからね」と言ってユカリは雲に覆われた夜空を見上げる。
「吹き飛ばすのはグリュエー」と風が耳元で囁く。
「ごめんごめん。えーと、八〇七号室ね」
一つの階に七つの窓があった。両端の窓の内、片方の窓はまだぼんやりとした明かりが灯っている。霊薬がどれほどの貴重なものなのかは分からないが、誰もいない部屋に置いていったり、留守番が寝ていたりということはないだろう。
ハルマイトもそれを確認し、階段を探しに中庭側へと回った。
「じゃあ、グリュエー、いつものよろしく。おっと、私が飛ぶんだからね。この建物を飛ばしちゃ駄目だよ?」
「分かってる」とグリュエーが呟く。「舌、噛まないでね」
「慣れたものだよ、舌を噛むのも」
強烈な風が轟々と巻き上がり、魔法少女ユカリの小さな体を軽々と打ち上げる。ユカリの体は次々に窓辺を越えて、屋上に放り出されるように降り立った。
下へと降りる階段が見当たらない。ユカリはおそるおそる屋上の縁から顔を出して、八〇七号室の窓の位置を確認する。墜落の心配などないが、ユカリはその高さに眩暈した。魔法少女の杖を握りしめると、覚悟を決めて縁から、足、体を放り出し、明かりのある窓へと勢いよく飛び込む。
油燈に照らし出された部屋にはほとんど何もない。薄汚い絨毯が敷かれ、粗末な整理箪笥が置かれている。
そしてユカリの目の前に鉄仮面をかぶった黒い僧衣の男、焚書官がいた。グリュエーに何か言う前に、ユカリは反射的に杖で殴りかかる。しかし焚書官は突然の事態に驚き叫びつつも、ユカリの殴打をものともせずに、杖を奪い取って部屋の隅へと放り投げた。
「貴様! どこから入ってきている!」と焚書官は狼狽えつつも怒鳴る。
「よくぞ聞いてくれました」と言いつつユカリは窓辺へ後ずさりする。「何を隠そう。私こそが魔法少女ユカリだよ」
「そんなことは聞いていない!」そう言って焚書官は抜刀する。
「我が守護者の剣の錆となれ!」とユカリは【叫ぶ】。
今回魔導書が守護者の素材に選んだのは近くの混凝土壁だった。人の形で壁に穴が開いてしまう。
混凝土の体で顕現した守護者が叫ぶ。「仰せのままに! 我が主! 逆賊め! 覚悟せよ!」
守護者は雄叫びと共に焚書官に躍りかかる。混凝土の体は焚書官の剣にびくともせず、混凝土の鈍い剣によって一撃の内に焚書官を打ち倒す。それは一瞬の出来事だった。しかし守護者はユカリの方を見て、糸の切れた操り人形のようにぴたりと動きを止めた。
ユカリの背後から現れた何者かがその首元に剣を押し当て、囁く。「あの人形を止めろ」と。
ユカリが指示通りに守護者の魔法を解除するまでもなく、混凝土人形は床に倒れた。守護者が気を利かせたのか、叫びの呪文の力が途切れたのか、ユカリには分からなかった。
それでもなお余裕ありげにユカリは愚痴る。「一日に二回も人質に取られるなんて。ついてないね」
しかし内心では焦っていた。窓辺にもう一人いたのに、気づけなかった。どうするか、ユカリは考える。
背後の焚書官が舌打ちする。「おい! 立てるか!?」
しかし打ち倒された焚書官は呻き、痛みに身をよじるだけだった。
一か八かグリュエーに頼んで打開するか、ユカリが迷っていると玄関からハルマイトが飛び込んできた。
ユカリの背後の焚書官が新たな侵入者を前に冷静に威圧する。「これを見ろ。止まれ。動くな」
ハルマイトはぴたりと立ち止まる。ユカリと目が合う。
「分かった。動かない」とハルマイトは言い、そして【囁く】。「ところでこの辺りで一番美味しい食べ物について詳しく教えてくれないか?」
「はあ?」焚書官は混乱しながらもつらつらと蘊蓄を語り始める。「そりゃあ、近海で獲られる魚介料理のどれかだろうな。海老と烏賊の焼き飯。帆立の牛酪炒め。鯛や鱸の焙り焼き。橄欖油をかければ完璧だ。それに……」
次々に出てくるバイナ海料理を押しとどめようと焚書官は自分の口を塞ぐが、止めることが出来ない。
その隙にユカリは抜け出し、杖を拾いに部屋の端へ走る。今度はハルマイトが抜刀し、その混乱する焚書官の首元に刃の腹を押し当て、追い詰め、窓辺から上半身を突き出させた。
「もういいぞ」とハルマイトは【囁く】。「それよりここから落ちたくなかったら教えてくれ。霊薬はどこにあるんだ?」
焚書官は少しも抵抗することなく答える。「分かった。言う。そこの整理箪笥だ。一番上の抽斗の中にある」
「ありがとよ」そう言ってハルマイトは焚書官を躊躇なく窓辺から突き落とした。
引き絞った弓弦が弾かれたようにユカリの体が窓辺に駆け寄り、ハルマイトを押しのける。何かが地面に叩きつけられる音が聞こえたのはユカリが下を覗き込むのと同時だった。暗くてよく見えないが、地面に横たわった焚書官は身動きせず、四肢が奇妙に捻じれている。ユカリの頭が真っ白になる。今、ハルマイトが行ったことを理解するのに時間がかかった。
その間にハルマイトは整理箪笥のところへ行き、一番上の抽斗を開けた。
「何だこれ? 薬はどこだ?」羽虫を追い払う時のようにハルマイトは苛立つ。「ユカリ。おかしい。霊薬が無い。秘密を暴く魔法の前に嘘はつけないんだよな?」
ハルマイトは何か紙切れを抽斗から取り出した。ユカリは何か得体のしれないものを目の前にしている気分だった。