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「……ツトムくん、引退したの?」
「ああ、引退したよ。球団側に辞めると伝えたところ、神妙な面持ちを浮かべながらも、すんなりと受理してくれた」
「また来年もがんばってみるって言ってたよね……」
「お待たせしました。こちら、ご注文の品です」
系統立てずに注文した料理たちが、テーブルに運ばれてくる。
美咲は料理に目もくれず、ツトムを一点凝視したままだった。
「とにかくまずは、バローロワインを楽しもう」
ツトムは手を伸ばし、美咲のグラスに自身のグラスを当てた。
懐事情に対し高価なバローロ・フランチャ。
貧乏生活をつづけたツトムにとって、バローロがもつ渋みはあまり慣れたものではなかった。
「……」
美咲はワインに口をつけることもなく、料理に目をやることもなかった。
ただツトムに視線を固定させたまま座っている。
「ツトムくん、ちゃんと説明してほしい」
「なんでそんなに動揺してるの?」
「なんでそんなあっけらかんとしてるの?」
「それは……」
「野球はあなたのすべてだったじゃない。再起不能なケガをしたわけでも、体力が衰えたわけでもないのに、どうして辞めちゃったのよ?」
「どうしてって言われても」
引退を告げれば美咲は飛びあがってよろこぶと思っていた。
しかし現実には険しい表情を崩すことなく座っている。
堅実に銀行に務め、不安を排する人生を送る美咲。
そんな美咲にとって、自分の引退はさらなる安定が加わるものだと思っていただけに、その反応はあまりに意外なものだった。
ただ同時に、その険しい視線がありがたくもあった。
本気で自分の夢を応援してくれていた。
いまさらながツトムはそれに気づき、感謝の気持ちが込みあげてくる。
「夜は長いんだ。だからまずは大いに料理を楽しもう。くわしい話はそれからで」
「……わかったわ」
美咲はフォークとナイフを手にして、なにも言わずカルパッチョとカプレーゼとティラミスを食べはじめた。
釣られるようにしてツトムもフォークとナイフを手にした。
「お待たせしました。オッソブーコです」
待ち望んだオッソブーコが席に届けられると、ツトムはすぐに口に運んだ。
そしてラ・コンナートのオッソブーコがどれほどの美味であるかを改めて実感した。
ラ・コンナートのオッソブーコはツトムから会話を奪い、思考を奪い、心を奪い、腹を満たした。
あの感嘆すべきオッソブーコを作ったのはシェフともうひとりの男、スーシェフの堂島時夫。
時夫はツトムが長年探していた高校時代の友人であり、元チームメイトだった。
その時夫がまさか自分とおなじ能力者だったなど夢にも思わなかった。
下腹部の鋭い痛みによって床に伏した3日間(百瀬あかねの能力による生理痛)。
ツトムはシェアハウスのことばかりを考えた。
もっと能力について知りたい。
他の能力者に会って話を聞いてみたい。
心はいつしかシェアハウスへと舵を切っていた。
そしてその中心には堂島時夫がいた。
ずっと探していた時夫がシェアハウスに住んでいる。
それだけでもツトムの心を固めるにはじゅうぶんだった。
シェアハウスに住みながら野球をつづけるという選択肢はなかった。
能力と野球、ツトムの人生におけるふたつの命題は、同時進行できるほど容易なものではない。
下腹部の痛みにうめきながら、わずかな思考が求めたのは新たな能力者との出会い、そして時夫との再会だった。
しかし本心を掘り下げてみれば、ほんとうは美濃輪雄二に出会ったその瞬間に、もうつぎなる命題へと進みはじめていたのかもしれない。
ツトムは我に返り、口内のオッソブーコを噛み砕いて飲み込んだ。
美咲は黙々と目のまえの料理を食べている。
フォークとナイフを器用に使いこなす美しい手さばきに、ツトムは見とれた。
「ごめん、ちょっとトイレ」
ツトムはそう言ってトイレにむかった。
個室に入り水を流しながら、さきほど使用した能力のリセットをかけた。
9秒間の無機物状態を経たツトムは、トイレをでて席にもどる。
店の奥にある小さな舞台にステージライトが灯った。
楽屋から現れたイタリア人らしき2人組が、アコーディオンとクラシックギターを鳴らしながら登場した。
ステージ手前から起こった拍手が、波のようにツトムと美咲の席にまで届いた。
ツトムも合わせて手を叩いたが、美咲はステージを見向きもせずに、ひたすら料理を口に運び、3杯めのバローロを空けた。
ライトを浴びた2人組は、声高らかにカンツォーネを歌っている。
ステージ周辺の客が手拍子でエールを送っている。
『オ ソーレ ミーオ スタンフロンテ ア テ オ ソーレ オ ソーレ ミーオ』
多くの客がカンツォーネの一節を聴いては、すぐ談笑を再開させた。
ステージの真正面に陣取ったサラリーマン一行だけが、手拍子をやめられないままつづけている。
アルコールにめっぽう弱い美咲はすでに赤ら顔だが、頬に詰め込んだ料理をバローロで流しつづけている。
美咲がフォークとナイフを置き、不機嫌そうに言った。
「さあ、あなたの言うとおり、大いに食べて飲んだわ。なんで引退したのかちゃんと教えてよ」
ツトムは店員を呼び止めて2本めのボトルを注文した。
値段はバローロ・フランチャの3分の1にも満たない。