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ゆうき あきや
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第23話:ケースワーカーの笑顔〜役所前の男泣きと、青空〜
「……終わった。全部、終わった」
午後一時。
保険年金課、市民税課、そして少し離れた場所にある税務署。
市役所内でたらい回しにされ、慣れない書類の山と格闘し続けた俺は、フラフラの状態で市役所の正面玄関から外へと転がり出た。
手に握りしめているのは、国民健康保険の真新しい保険証と、個人事業主としての『開業届』の控え。
これでもう、俺は「保護受給者」ではない。国に守られた無菌室から追い出され、自分の足で荒野を歩かなければならない、ただの四十歳の個人事業主(おっさん)だ。
「はぁ……」
市役所前の広場にあるベンチにどっかと腰を下ろし、初夏を思わせる青空を見上げる。
首を絞めつけるネクタイを乱暴に緩めると、生温かい風が吹き抜けていった。
達成感よりも、これからの不安と、膨大な手続きによる疲労感が勝っていた。
生活支援課の窓口で辞退届を出した時、担当ケースワーカーの鈴木さんは、相変わらずの「鉄面皮」で事務的に処理を進め、ただ冷々と次の手続き先を指示してきただけだった。
(……まあ、あんなもんだよな)
俺は自嘲気味に笑った。
相手は公務員だ。俺みたいな社会のサビが一人減ったところで、彼女の抱える何十人ものケースの一つが片付いたというだけの話。いちいち「おめでとう」なんて感動的なお別れがあるわけない。ドラマじゃあるまいし。
「帰って、寝よ……。今日はもう、配信する気力もねえわ」
ベンチから立ち上がり、重い足を引きずって帰路につこうとした、その時だった。
「――ルシフェルさん」
背後から、凛とした声が響いた。
聞き間違えるはずがない。俺がこの数ヶ月間、毎日のように怯え、夢にまで見たあの声だ。
ビクッとして振り返ると、そこには、昼休憩に出ようとしていたのか、首から職員証を下げたままの鈴木さんが立っていた。
手には、コンビニの袋が提げられている。
「あ、鈴木さん……。どうも。さっきは、その、手続きありがとうございました。全部、終わりました」
俺は気まずく頭を下げた。
鈴木さんは無言のまま、数歩だけ俺に近づき、俺の手元にある開業届の控えと、真新しい保険証に視線を落とした。
「そうですか。無事に受理されたようですね」
「ええ。これで俺も、立派な納税者(予定)です。……今まで、生意気言ってすみませんでした。鈴木さんのおかげで、俺、なんとか……」
俺が最後の挨拶をしようと口を開きかけた瞬間。
「……おめでとうございます」
「え?」
鈴木さんの言葉が、初夏の風に乗って、俺の耳にふわりと届いた。
顔を上げると。
そこには、今まで一度も見たことがない――あの鉄面皮の若手公務員が、目元を優しく和ませ、まるで自分の家族の門出を祝うような、心からの、本当に綺麗な『微笑み』を浮かべていた。
「四十歳からの独立、立派な一歩だと思います。あなたが自分自身の力で、社会という舞台に上がったこと。担当として、とても誇りに思います」
「す、鈴木、さん……」
「でも、油断しないでくださいね。フリーランスの道は厳しいですよ」
鈴木さんは、微笑んだまま、いつもの少しだけ厳しいトーンで言葉を継いだ。
「来年は確定申告、絶対に忘れないでくださいね。もし税金を滞納したら……次はケースワーカーとしてではなく、税務課の徴収担当と一緒に、あなたのアパートに取り立てに行きますから」
冗談なのか本気なのか分からない、彼女なりの最強のエール。
「っ……!」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の心の奥底でギリギリ持ち堪えていた「何か」が、音を立てて決壊した。
「うぅ……っ、うわぁぁぁぁぁぁん!!!」
市役所の正面広場。
昼休みで大勢の人が行き交う中、四十歳、黒の就活スーツを着たおっさんが、顔をくしゃくしゃにして大声で泣き出した。
「ありがと、ございましたぁぁ! 鈴木さぁぁん!! 俺、頑張ります! 確定申告、絶対にやりますからぁぁぁ!!」
ボロボロとこぼれる涙を、ネクタイで乱暴に拭う。
鼻水が垂れ、嗚咽が止まらない。みっともないことこの上ない。
でも、止まらなかった。俺は四十年間、誰かにこんな風に「誇りに思う」と言ってもらえたことなんて、一度もなかったのだ。
「もう……広場で大声で泣かないでください。私が泣かせたみたいで、周りの目が気になるじゃないですか」
鈴木さんは困ったように苦笑しながらも、持っていたコンビニの袋からポケットティッシュを取り出し、そっと俺に差し出してくれた。
「ほら、涙を拭いて。明日の企業案件の配信、楽しみにしていますからね」
「……へっ?」
俺はティッシュを受け取ったまま、間の抜けた声を出した。
「……鈴木さん、俺の配信、見てるんですか?」
「担当ケースワーカーですから。受給者の生活実態の把握は義務です」
鈴木さんはスッと眼鏡の位置を押し上げ、踵を返した。
「それに……あの『生活保護おじさん』の愚痴、仕事終わりに聞くと、なんだか妙に元気が出るんですよ。ふふっ」
背中越しに小さく笑い声を残し、鈴木さんは市役所の建物へと戻っていった。
「…………」
俺は、一人残された広場で、青空を見上げながら、もう一度だけ盛大に鼻をかんだ。
『仕事終わりに聞くと、元気が出る』
俺の、底辺から喚き散らすだけのくだらない配信が。
あの完璧で冷徹な鈴木さんの、日々の疲れを癒やしていた?
「……なんだよ、それ。最高じゃねえか」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、俺の口角は自然と吊り上がっていた。
ポケットの中で、スマホがブルッと震える。
X(旧Twitter)を開くと、リスナーたちから『おっさん、手続き終わったか!?』『納税者、生きてるか!』という通知が、滝のように届いていた。
俺は大きく深呼吸をし、画面に向かって力強くタイピングした。
『【ご報告】お前ら。俺はたった今、市役所前で男泣きをして、完全にナマポを卒業した。明日の案件配信、絶対に見に来い。俺がこの社会で生きていく最初の仕事だ』
送信ボタンを押す。
初夏の太陽が、やけに眩しかった。
俺の四十年のニート生活が終わり、個人事業主としての、そして数万人のリスナーを背負う『配信者』としての本当の人生が、今、ここから始まるのだ。
コメント
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ああ……もう、最後の鈴木さんの笑顔、本当に良かったですね。鉄面皮の向こう側にずっとあった眼差しが、ページを超えてじんわり伝わってきて、私ももらい泣きしそうになりました。公務員と受給者という関係性を超えて、「あなたの配信、元気が出るんですよ」って背中越しに言うシーンとか、優しすぎて言葉がでません。四十年かけてやっと誰かに「誇りに思う」って言ってもらえたルシフェルさんの気持ちを思うと、胸がぎゅっとなります。本当に素敵なエピソードでした。