テラーノベル
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「ごめん……新しい現場に変わって、公休日が不定期になったの」
実際は避けていたわけだけれど、当たり障りのない答えを言う。
「それにしても……」
「ごめんね?」
かなり不機嫌だ。避けていたのがバレている訳ではなさそうだけれど。
「お、お詫びに今日は私がご馳走する! 何が食べたい?」
「何って……」
一瞬面食らったような顔をした鷹也だが、すぐにニヤッと笑った。
あ、これは何か良からぬことを考えている顔だ。7年も付き合っているのだ。さすがに表情の変化は読み取れる。
案の定「杏子に決まって……」と言いだしたので、思いっきり手で口を塞いでやった。
「ここカフェだよ! 何言い出すの……まったく」
「……モゴ…………何でもいいって言ったのは杏子だろう?」
「食事の話よ!」
「杏子、赤くなってるぞ」
「うるさい」
あれだけ悩んだのに、会ってみたらいつも通りだ。
他の人の前では絶対に見せない、私だけに見せるちょっと意地悪な鷹也の顔。こうやってからかわれてキュンとしてしまうのだから、私ってチョロいのかも……。
それに、ひと月ぶりに会ってやっぱり嬉しいと思っている私がいる。会いたかったのだ、鷹也に。
「……冗談じゃなくてさ」
「え?」
「会いたかった」
「……!」
「食事、おごってくれるのはまた今度でいいよ。ここ、出よう……?」
ドキンとした。鷹也の顔が、情欲に染まっていたから。
これからどこに行きたいのか想像がついたから。
それから私たちはカフェを出て、無言で歩いて行った。カフェから一番近いシティホテルへ。シャワーもそこそこに私たちは抱き合った。
この一ヶ月、不安で不安で、眠れぬ夜を過ごしたことを鷹也は知らない。
でもひとたび抱き合えば、体だけじゃなく心も満たされた。
やっぱり私はどうしようもなく鷹也を愛しているし、愛されていると感じる。
「杏子が不足してた」
「ん……私も」
「話があったんだ」
「……何?」
今はすごく満たされていて、そんなときにイヤな話だったらどうしよう……と身構えた。
「一人暮らしをしようと思う」
「一人暮らし? 実家を出るの?」
「ああ。今まではこうやって外で会うしかなかっただろう? でも就職してお互いなかなか休日が合わないし。俺がマンションを借りれば、夜ちょっとでも会える日が増えるんじゃないかと思って」
「それは嬉しいけど……」
でも私は祖母と二人暮らしなのだ。
祖母を一人にして鷹也と住むことはできない。
「杏子がお祖母さんをおいて一緒に住めないのはわかってるよ。だから住むところは杏子の近くにするよ。それならお互い仕事が終わってからでも会えるだろう?」
「鷹也……」
「実はもう探し始めているんだ」
「……うん。すっごく楽しみ」
こんなに私との時間を大切に考えてくれているのに、私はどうして鷹也を疑ったのだろう。鷹也の気持ちが嬉しかった。
それからすぐ、鷹也は祖母と私が暮らすマンションから徒歩で10分くらいの場所にマンションを借りた。
そのマンションは、超高級タワーマンションの低層階で分譲貸しだった。あの人から森勢商事の後継者と聞いていなかったら、驚いたことだろう。
40平米の1LDKは広々としていて素敵な部屋だと思ったけれど、同時に不安にもなった。やっぱり私たちは釣り合わないのじゃないかって。
こんなマンションを借りることができる説明を、鷹也はいつしてくれるのだろうと、やはり悩んでしまった。
それでもしばらくは蜜月というほどに甘い時を過ごして、私は不安を感じないようになっていた。そんなときだった、光希さんとマンションのエントランスで出くわしたのは。
「あら……あなたまだ鷹也と会っているの?」
「光希さん……」
「もうとっくに身を引いてくれているんだと思ったわ。どうして来たの? 鷹也、今日は遅くなるでしょう?」
「え……」
「今日、経済界のトップが集まるパーティーがあるのよ。私も今から向かうところ。でも鷹也ったら忘れ物をしちゃって。鷹也ママに頼まれて私が取りに来たの」
そう言って、カードキーをひらひらと見せられた。私も渡されているここのカードキーを、鷹也のお母様から渡されたとばかりに見せつけられたのだ。
「ねえ、そろそろ本当に身を引いてくれない?」
「私は……」
鷹也は私を想っていてくれる。それは間違いない。
このマンションで、私たちは甘い時を過ごしてきた。幸せな時を。
でも、それは親から鍵を渡されてここに来ているこの人とは違う……。
私たちはこっそり隠れて会っているのと同じなんだわ。
それに、今からこの人があの部屋に入って鷹也の忘れ物を探すの?
私たちの部屋に、この人が入るの?
そんなことを考えると、あの部屋が穢されたような気がした。
吐き気がする!
「……失礼します」
「待って、私、ここに引っ越してくるつもりなの。……あの部屋に。だから本当にもう会わないで欲しいの」
「……」
「あなたが鷹也の両親に気に入られることはないわ。鷹也はあなたの仕事を恥ずかしく思っているの。そんな人をお父様に会わせたりしない。鷹也に聞いてみるといいわ」
「……失礼します」
私はライバルを目の前にして尻尾を巻いて逃げる犬のようだった。
でも、もう一秒たりともその場にいたくなかった。
祖母と住むマンションまでどの道を通って帰ったのかも覚えていない。
走って走って、自分の部屋に逃げ帰った私は鷹也からの連絡を絶った。