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#海辺の町
#異能力
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最初の2週間は1日3食。
次の2週間は1日2食。
だんだん品数が減り、固いパンとスープだけになったと思っていたら、とうとう1日1食になってしまった。
「さすがにお腹がすくわ」
あの男が言う『死なない程度』とは1日1食という意味だったのか。
いくら間宮家の負債を肩代わりしてくれたとはいえ、さすがに食事を減らしすぎだと静香は苦笑した。
「どこかで働けるかな……」
このままでは空腹で倒れてしまいそうだ。
贅沢だと、わがままだと言われるかもしれないが、私は肉が食べたい!
特殊真珠はこの屋敷を出るときの大事な資金。
普段の食事に使っていては命がいくつあっても足りなくなってしまう。
「とりあえず、街へ行こう」
静香は大事な特殊真珠を小さな巾着に入れて胸元に隠すと、質素な着物で別邸の裏口からこっそり抜け出した。
「こちらで働かせていただけないでしょうか。掃除でも、皿洗いでも何でもいたします」
「冷やかしはやめてくれ」
香ばしい匂いの漂う街角のパン屋で、静香は深々と頭を下げた。
だが、店主は静香の手を見るなり鼻で笑い、まったく相手にしてくれなかった。
仕立て屋も、宿屋も、食事処も。
何軒も回ったが、どこも静香を雇ってくれるような店はない。
私は自分の力で食べる物を手に入れることすらできないんだ……。
慣れない草履で歩き続けた足はもう限界。
絶望に暮れながら屋敷へと戻っていた静香の目にふと看板が飛び込んだ。
『過去も、名も問わず。ただ、病に苦しむ者のために動ける者を求む』
「名も問わず……?」
見上げた建物は石造りの古びた済生診療所。
おそらく華族などが慈善活動の一環として、経営している病院だ。
「ここなら雇ってもらえる……?」
わずかなお金でかまわない。
その日の夕食を食べることができるお金をもらえれば。
身分証も保証人もいらないという一筋の光に縋るように、静香は重い扉を押し開けた。
薄暗い診療所の一室に案内された静香は、ゴクリと唾を飲み込む。
目の前の初老の婦長は、今までの店と同じように静香の細くて白い手を見るなり肩をすくめた。
「ここが何をするところか知ってるのかい?」
「はい。病気や怪我をした人が来るところです」
いくら無知な自分でもそのくらいなら知っている。
「ここは地獄だよ。毎日、泥と血と排泄物の臭いにまみれる場所だ。あんたみたいなお嬢様には無理だよ」
さぁ、帰りなと言われた静香は、右手で自分の左手首をギュッと掴んだ。
「働かせてください。働かないと食事ができないのです」
「困っているような身なりには見えないけれど?」
「幸い、住むところはあります。物を売れば、しばらく食べ物は手に入るかもしれません。でも……」
いつかは食べ物が手に入らなくなる。
それでは一生ひとりで生きていくことなんてできない。
「お願いします。私、時々でいいので、お肉が食べたいんです」
「うちの給金は安いよ」
婦長はフンと鼻を鳴らしたあと、棚からエプロンを放り投げた。
「明日は9時に来な。あんたの仕事は洗濯だ」
「ありがとうございます」
翌日から、静香の壮絶な毎日が始まった。
毎朝8時に菊乃が持ってくるパンとスープを食べたら急いで出勤。
慣れない力仕事に腰は砕けそうになり、冬の冷たい水での洗濯は過酷だった。
なかなか落ちない包帯の血、汚れたシーツ。
だが、別邸ですることもなく、ただ死を待つように過ごしていた日々に比べれば、毎日が充実していた。
いただいた給金で帰りに温かい食事をして別邸に戻るなんて、少し前の自分では考えられないような行動だ。
「いただきます……っ」
出汁の香りが鼻をくすぐり、凍えた身体に染み渡る。
嵯峨邸の冷え切った食事とは比べものにならない、自分の労働の対価で得た「温もり」だった。
食べ終えた静香は夜道を急ぐ。
裏門から森を抜けて別邸に滑り込み、冷たい水で身体を洗って寝巻きに着替る。
『お飾り夫人』に戻った静香は、満月の日を待ちわびながらすぐに眠りについた。