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【 レジ横の攻防戦 】
「……あの、すみません。32円、足りなくて」
スーパーのレジ前。工藤の後ろに並んでいた女の子が、困ったように首を傾げていた。後ろには行列。レジの店員も困り顔だ。
工藤は、自分の会計を完璧に済ませたところだった。小銭入れの中身は、常に金額ごとに整列されている。
「……これ、使いなさい」
見かねた工藤が、指先で弾くように32円を差し出した。
「えっ! いいんですか? ありがとうございます! お兄さん、神様!」
「……神ではありません。後ろが詰まっているだけです。返さなくていい」
工藤は足早に店を出た。関わりたくなかった。自分のような「かちこち」な人間と、ああいう「ゆるい」人間は、住む世界が違う。
だが、数分後。
「お兄さーん! 待ってくださーい!」
背後から、パタパタとスリッパの音が追いかけてくる。振り返ると、さっきの女の子がレジ袋を揺らしながら走ってきて、工藤の胸に飛び込む勢いで急停止した。
「これ、お礼です! 私がさっき買ったアイスの中で一番高いアイス!」
「……溶けるのでいりません。32円のためにそんなことをしなくていいです」
「ダメです! 借りたままなのは気持ち悪いもん。あ、でも、ここじゃ溶けちゃうから……お兄さんの家、どこですか? そこで一緒に食べれば解決ですよね?」
「…………は?」
工藤は絶句した。
初対面の男に、32円のお礼で「家に行こう」と言う。この娘の危機管理能力はどうなっているんだ。
「……君、危ないですよ。ついて行かないし、来させもしない。名前も知らない男にそんなことを言うもんじゃない」
「えー。でも、お兄さん、すっごく真面目そうな顔してるし。悪いことできなさそうだもん」
ねねは、工藤の腕にひょいっと手を絡めた。
工藤の体は、マイナス30度の冷気に当てられたようにガチガチに硬直した。
「……離しなさい。はしたない」
「えへへ。私ねねって言います。お兄さんの名前は?お兄さん、腕かちこちですね。筋トレしてるんですか?」
「……工藤だ。……してない。……というか、君、近すぎる」
「……というわけで、あの店のチョコバナナ大福、皮がもちもちすぎて、もはや飲み物なんですよ! 工藤さんも絶対好きだと思うなぁ」
スーパーの横のベンチ。
工藤は、強引に押し付けられた溶けかけのバニラアイスを隣で身振り手振りを交えて喋り倒すねねを凝視しながら食べていた。
「……ねねさん。大福は食べ物です。飲み物ではありません」
「あ、そこツッコむんだ! さすが工藤さん、真面目ー! 好き!」
「……っ、軽々しくそういうことを言わない」
工藤の耳たぶが、夕焼けのせいかアイスの冷たさのせいか、妙な熱を帯びる。
しかし、ねねの「自分語りマシンガントーク」は止まらない。
「私の大学、ここからバスで20分のとこにあるんですけど、油絵の具の匂いが充満してて、たまにクラクラしちゃうんです。だから帰りにあそこの公園のベンチでぼーっとするのが日課で。あ、そういえば最近、その公園に住み着いてる三毛猫が、私の筆箱を奪って逃げたんですよ。信じられます? 筆箱ですよ?」
「……猫の習性として、細長いものは獲物に見えることが……」
「ですよね! だから私、その猫に『筆箱』って名前をつけたんです。斬新でしょ?」
工藤の頭の中で、整理整頓された情報の引き出しが、次々と「筆箱という名前の猫」「飲み物の大福」「美大の匂い」といった支離滅裂なデータで上書きされていく。
彼は32年間、必要な情報だけを選別して生きてきた。だが、ねねの話には「必要」なものなど一つもない。それなのに、なぜか聞き流すことができない。
「あ、アイス食べ終わっちゃった」
ねねが、名残惜しそうに工藤が食べ終わった空のカップを見つめた後、ぱっと工藤の顔を覗き込んだ。至近距離。彼女の瞳は、夏の終わりのような、どこか掴みどころのない熱を帯びていた。
「ねぇ、工藤さん。さっきの32円、やっぱりちゃんとお返ししたいです」
「……ですから、いらないと言って……」
「ダメです! 私、借りは作らない主義なんです。だから、来週の土曜日。私のおすすめの『飲み物大福』のお店に、工藤さんを連れて行きます!」
「は……? いえ、私は土曜日は掃除と、一週間分の献立の作成が……」
「朝の10時に、駅前の時計台の下ですよ? 遅刻厳禁! あ、工藤さんの連絡先、教えてくれないなら、私が土曜日までここでずっと待ってますからね?」
そういうとねねは、工藤のスマホをポケットからひょいと奪い取ると、スマホを工藤に向けて顔認証で解除し、自分のQRコードを慣れた手つきで読み込ませた。
「……っ、君! それはプライバシーの侵害……!」
「はい、登録完了! スタンプ送ったから、既読無視しちゃダメですよ? 土曜日工藤さんが来るまでずっと待ってますからね!」
ねねは「じゃあね!」と軽やかに手を振ると、嵐のように去っていった。
残されたのは、完璧にペースを乱され、手にベタついたアイスのカップを持ったまま、呆然と立ち尽くす工藤だけだった。
スマホが震える。
画面には、ゆるい猫が「まってるよー」と踊るスタンプが表示されていた。
「…………献立の予定が、狂う」
工藤は深く、深いため息をついた。
だが、その表情は、32年間で一度も見せたことがないほど、ひどく困惑し、そしてひどく「生きて」いた。