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彼は「お渡ししていませんでしたね」と、私に名刺を差し出してきた。
「……あ、ありがとうございます……。すみません、今は名刺を持っていなくて……」
「三峯さんの事は十分把握しておりますので、大丈夫です。……それにしても、本屋に行こうと思って移動していたら、呼吸を乱した副社長に呼びつけられ、いきなり銀座に集合です。ハンズフリーで電話をしながら大の男が二人で走り、ようやくあなたを見つけた次第です」
白銀さんの声は淡々としていて、怒っているんだか、そうでないんだか分からない。
でもこんな状況になり、彼に好意的に捉えられていると思うほど、めでたくもなかった。
「……申し訳ございません」
謝ると、白銀さんは溜め息をつき、眼鏡をかけ直す。
「ご執心しているあなたを手放せば、副社長は大荒れします。いきなり囲われて逃げたくなる気持ちも理解しますが、どうかあの方のためにも大人しくしていてください」
「…………はい…………」
頷くものの、白銀さんは暁人さんが不倫している事を知っているんだろうか?
なら、すべて承知の上で私に「大人しくしていろ」と言うのだろうか?
それなら……、とても残酷な話だ。
「しかし、理解できません。三峯さんは副社長に生活の面倒を見てもらい、借金については契約通り店の売り上げから地道に返済する事で決まったはずです。副社長は『身を粉にして働いて、借金を完全返済しろ』など言っていないはずです。……違いますか?」
「……仰る通りです」
分かってる。暁人さんは私に何一つ強制していない。
〝大人の恋人ごっこ〟の相手は求められているけれど、エッチだって乗り気でなければ「構わない」と言う人だし、体調を悪くしていれば心配してくれる。
第三者から見ればこれ以上ない優遇だ。
なのに私が夜の仕事の面接を受けようとするものだから、彼が疑問を抱くのは当然だ。
「なぜこんな事をするんです? 大人しく守られた場所で愛され、好きな仕事をしていればいいものを……」
溜め息をついた白銀さんを前にして、私は彼ならグレースさんの事も知っているだろうと見当を付けた。
(相談してみたい)
ずっと一人で出口のない迷路を彷徨っていたような気持ちだったけれど、事情を知る彼なら、適切な助言をくれるかもしれない。
期待した私は、思い切って尋ねてみた。
「……暁人さんのいない場所でお話できませんか? まだ彼には言えない事情があるんです」
そう言うと、白銀さんは「いいでしょう」と頷いて歩き始めた。
「あの……暁人さんは……」
「メッセージを入れておきます。今は、あなたの本音を聞くほうが大事ですから」
タクシーを拾える場所まで行くと、車に乗った白銀さんは「渋谷駅までお願いします」と運転手に告げた。
車が発進したあと、白銀さんは「失礼」と断りを入れ、暁人さんにメッセージを打ち始める。
それが終わったあと、彼は「話を聞きましょうか」と促した。
私はどう切りだしたものか悩み、しばらく黙っていたけれど、溜め息をつくと話し始めた。
「……先日、暁人さんが奥さんと一緒にいるのを見てしまったんです」
「奥さん?」
白銀さんは言葉尻を上げ、眼鏡の奥で目を瞬かせる。
「グレースさんという、金髪美女です」
「……あぁ……」
彼女の名前を聞いた白銀さんは、納得した声を出して何度か頷き、前を向く。
(やっぱり知ってたんだ……)
そう思った時、白銀さんは少し意地悪に尋ねてきた。
「彼女の存在を知って、怖じ気づいたと?」
「怖じ気づくって……。当たり前じゃないですか! 私は浮気相手なんですよ? 一緒に住む事も、愛される事も許されないんです」
暁人さんだけでなく、秘書の白銀さんまで倫理観が歪んでいるのかもしれないと思うと、途方に暮れてしまう。
大企業の御曹司のする事だから、みんな目を瞑っている感じなんだろうか。
けれど白銀さんは私の態度など意に介さず、さらに聞いてくる。
「あなたの副社長への想いは、そんなものなんですか?」
ジッと見つめられ、私は戸惑う。
(この人、何を言っているの?)
まるで「浮気相手でもいいから、好きなら想いを譲るな」と言われている気持ちになる。
「……白銀さんは、副社長が不倫でスクープされてもいいんですか?」
「それは困りますね」
サラリと言うのに、彼は暁人さんを諦めろとは言わない。
主人が主人なら、秘書も秘書で、彼らが何を考えているのかまったく分からない。