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王都からの使者が来たのは、その三日後だった。
昼を少し過ぎたころ。
雪はやみ、空は薄い銀色に晴れていた。
屋敷の門前に馬が止まる。
封蝋つきの書状が運び込まれる。
作業部屋で薬草を刻んでいたリゼットは、呼ばれて顔を上げた。
「リゼット様。あなた宛てです」
マルタが差し出した封筒を見た瞬間、胸の奥がひやりとした。
見慣れた家紋。
淡い青の封蝋。
アーヴェル伯爵家。
指先が、わずかに止まる。
「開けますか」
「……はい」
答えたものの、すぐには封を切れなかった。
王都を離れて、まだ数日。
なのにこの封筒だけが、ずっと遠い過去から来たものみたいに見えた。
継母の視線。
義妹の笑顔。
都合のいいときだけ“家族”の顔をする人たち。
どれも、もう二度と戻らないものだと思っていた。
リゼットは静かに封を切る。
中には、便箋が一枚だけ。
そして――
ふわり、と甘い香りが立った。
その瞬間、リゼットのまぶたがぴくりと動く。
「どうかなさいましたか」
「……いえ」
まだ、分からない。
でも、この香りには覚えがあった。
王城の夜。
セレナが涙ぐみながら袖を押さえていたあのとき。
一瞬だけ流れた甘い匂い。
似ている。
リゼットは便箋を開いた。
お姉さまへ
その後、お加減はいかがですか。
王都では皆、お姉さまのことを案じております。
わたしも毎日、あの日のことを思い出して胸を痛めています。
どうかご無事でいてください。
お姉さまが少しでも穏やかに過ごしておられることを願っています。
セレナ
最後まで読み終えても、リゼットはしばらく便箋を見つめたままだった。
やさしい文だ。
驚くほどに。
心配する妹。
姉を気遣う家族。
誰が読んでも、そう見える。
――整いすぎている。
「妹君からですか」
マルタが訊く。
「はい」
「随分と、やさしい文ですね」
「ええ……」
リゼットは便箋を机へ置く。
「やさしすぎるくらいに」
マルタが首を傾げる。
リゼットは、もう一度文字を追った。
丸みのある字。
整った言葉遣い。
慎ましい文面。
でも、違和感がある。
セレナは確かに人前では楚々としている。
けれど、手紙までこんなふうに“見本のような善意”を並べるだろうか。
少なくとも、姉に向けて。
これはまるで――
「……変ですね」
「何がです?」
「この手紙」
リゼットは静かに言う。
「私に向けたというより、“私に送ったことを見せるため”の手紙みたいです」
マルタの目が少し細くなった。
「つまり、情を示すための」
「はい。誰かに対して」
辺境伯家に。
あるいは王都側の記録に。
“セレナは姉を案じていた”と残すための文。
そう考えると、紙の質まで不自然に見えてくる。
リゼットは便箋を光に透かした。
上質な紙だった。
伯爵家の日常使いより、むしろよいくらい。
しかも端に、わずかな粉が付いている。
白ではない。
ごく薄い金色。
「紙に何か?」
「微量ですが、粉がついています」
「ただの化粧では?」
「かもしれません」
でも、簡単には片づけられない。
リゼットは便箋を鼻先に近づけた。
甘い花の香り。
その奥に、少しだけ舌に残るような重さ。
ただの香油より、重い。
混ぜものがある香りだ。
そこへ、扉が叩かれた。
「入る」
返事より早く、扉が開く。
アルヴェインだった。
いつもどおりの無駄のない足取り。
その視線が、机の上の便箋へ落ちる。
「何だ」
「王都から、妹君の手紙だそうです」
マルタが答える。
アルヴェインは表情を変えない。
でも、ただの家族の便りとして見ていないことは分かった。
「読まれますか」
「見せろ」
リゼットは便箋を差し出す。
アルヴェインはそれを受け取り、素早く目を通した。
読み終えたあと、机へ戻す手つきがほんの少しだけ硬い。
「整いすぎているな」
リゼットは息を止める。
同じことを感じた。
「やはり、そう思われますか」
「ああ。心配している文にしては、状況に触れなさすぎる」
その通りだった。
辺境でどうしているのか。
断罪のあと、どう扱われたのか。
本当に気遣うなら、もっと具体を知りたがるはずだ。
なのにこの手紙は、ずっと安全な場所から書かれている。
感情の形だけが整っていて、中身がない。
「誰かに読まれても困らない文だ」
「ええ」
アルヴェインは便箋の香りにも気づいたらしく、わずかに眉を寄せる。
「この匂いは」
「王城の夜、セレナの袖からした香りに似ています」
アルヴェインの目が細くなる。
「覚えているのか」
「薬師なので。匂いはどうしても」
彼は短く頷いた。
それ以上、説明を求めないのがありがたかった。
疑いではなく、観察として受け取ってくれる。
「昨夜の香油と比べられるか」
「はい」
リゼットは棚から、例の王都から届いていた香油の瓶を取り出した。
便箋を隣に置く。
香りを比べる。
やはり似ている。
完全に同じではない。
でも、主になる花の香りの奥に、同じような鈍い重さがある。
香りで、何かを隠している。
「やっぱり」
思わず声が漏れる。
「同じものなのですか」
マルタが訊く。
「同一ではないと思います。でも系統が近い」
リゼットは瓶を光にかざす。
「少なくとも、偶然で片づけるには近すぎます」
「何を混ぜている」
アルヴェインの声は低い。
「まだ断定はできません」
リゼットは答える。
「でも、薬効を運びやすくする基材か、反応を遅らせるものか……そのどちらかです」
マルタの表情が険しくなる。
「つまり、その妹君の香りと、旦那様の薬に?」
「はい。つながりがあります」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が一段冷えた。
家族の手紙と、辺境伯の症状。
本来なら何の関係もないはずの二つが、目の前で一本の線になろうとしている。
「手紙は他に何も入っていなかったのか」
アルヴェインが訊く。
「便箋だけです」
「……そうか」
彼は短く考え込む。
その間、リゼットはもう一度手紙を読み返した。
“皆、お姉さまのことを案じております”
誰が。
本当にそうなら、父からの一筆がないのはおかしい。
“毎日、あの日のことを思い出して胸を痛めています”
なら、何に胸を痛めるのか、なぜ書かない。
“穏やかに過ごしておられることを願っています”
それは、姉を気遣うには距離がありすぎる。
「これは確認の手紙かもしれません」
「確認?」
「私が、どんな状態で辺境にいるのか。どれくらい自由なのか。返事をさせれば、ある程度わかります」
マルタが息をのむ。
「返事を誘っていると?」
「ええ。こちらの手の内を知るために」
アルヴェインはしばらくリゼットを見ていた。
その推測の重さを測るような沈黙。
やがて低く言う。
「返事は出すな」
「はい」
即答だった。
問い詰めたいことがないわけではない。
ぶつけたい感情がないわけでもない。
でも今、それを返せば向こうの思うつぼだ。
感情で動けば、“揺れている姉”として処理されるだけ。
リゼットは便箋を丁寧にたたむ。
そのとき。
折り目の奥から、小さな乾いた音がした。
何かが挟まっている。
リゼットは手を止める。
紙をもう一度開き、折り目を指でなぞる。
すると、ごく小さな薄片が落ちた。
花びらの欠片だった。
乾いた、淡い紫色。
「押し花……?」
マルタが呟く。
リゼットはそれを指先でつまんだ。
ただの飾りなら、もっと目立つ形で入れる。
でもこれは違う。
折り目の奥に、引っかかるように隠れていた。
「この花、王都の庭ではあまり使いません」
「分かるのか」
「乾燥させると、鎮静用の香りづけに使われることがあります」
マルタの顔が強張る。
「鎮静……」
三人の視線が、机上の香油瓶へ集まる。
同じ方向を見ている。
そのこと自体が、今ここにある疑いがもう“思い込み”ではなくなっている証だった。
「保管しろ」
アルヴェインが言う。
「はい」
「手紙も、花片も、香油も。全部だ」
その声には、はっきりした硬さがあった。
怒りを押し殺したときの音だ。
リゼットは小さな箱を取り出し、便箋と花片を丁寧に収める。
まだ弱い。
でも、残さなければ何も掴めない。
アルヴェインはしばらく手元を見ていた。
そして、不意に言った。
「お前は、家族からこういうことをされる心当たりがあるのか」
リゼットの指先が止まる。
問いは静かだった。
責めてもいない。
憐れんでもいない。
ただ、知ろうとしている。
だからこそ、少しだけ息が詰まった。
「……私が持っていた知識や成果を、セレナが“自分のもの”として扱うことはよくありました」
マルタが息をのむ気配がした。
「でも、それだけです」
リゼットは続ける。
「こんなふうに、辺境伯のことまで絡む理由は……まだ分かりません」
「そうか」
アルヴェインはそれだけ言う。
深く追及しない。
無理に慰めもしない。
でも、その短さは切り捨てではなかった。
続きを急がせないための間のようにも思えた。
リゼットは少しだけ、肩の力を抜く。
この人のそういうところを、最近少しずつ分かるようになってきた。
踏み込みすぎず。
放り出しもしない。
その距離が、今の自分にはありがたかった。
窓の外では、夕方の光が雪に淡く滲んでいた。
手紙一枚で、こんなにも胸が冷えるとは思わなかった。
でも同時に、進んだ気もする。
断罪の夜。
セレナの香り。
王都から届く香油。
規則的な発作。
ばらばらだったものが、また一つ近づいた。
リゼットは箱の蓋を閉じる。
「辺境伯」
「何だ」
「断罪の日のことと、あなたの症状は、やはり同じ線の上にあります」
アルヴェインの灰色の瞳が、静かにこちらを向く。
「まだ全部は見えません。でも、もう偶然ではないです」
しばし沈黙が落ちたあと、アルヴェインは低く言った。
「なら、辿れ」
その一言に、リゼットは頷く。
辿る。
必ず。
自分があの夜、何を奪われたのか。
この人が、誰に何を仕組まれてきたのか。
全部。
アルヴェインは部屋を出ていき、マルタも静かに下がった。
一人残った作業部屋で、リゼットはしばらく箱を見つめた。
家族から届いたはずの手紙なのに。
そこにあったのは、懐かしさではなかった。
よそよそしい罠の匂いだけだった。
それでも、不思議と絶望はしない。
王都にいたころなら、きっとこの手紙に傷ついて終わっていた。
でも今は違う。
傷つくだけで終わらない場所に、自分はいる。
見てくれる目がある。
積み上げる机がある。
疑いを“妄想”ではなく“仮説”として受け取ってくれる人がいる。
それがどれほど強いことか、もう知ってしまった。
リゼットは新しい記録用紙を広げる。
一行目に書く。
断罪当夜の香りと、王都から届く香油の類似。
その文字は、ただのメモではなかった。
奪われた夜を取り返すための、ひとつの足場だった。