テラーノベル
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150
異変に気づいたのは、夕食のあとだった。
その日は朝から、雪が細かく降り続いていた。
屋敷全体が、白い静けさに包まれている。
リゼットは作業部屋で記録をまとめていた。
けれど、ふと手が止まる。
――今夜だ。
理由を言葉にするより先に、体がそう告げていた。
記録帳に並ぶ時刻。
月齢。
前回の発作からの間隔。
そして昼にアルヴェインが飲んだ、王都から届いた補助薬。
条件が、重なっている。
リゼットは立ち上がり、棚の上の小瓶を確かめた。
今朝、自分で組み直した仮の処方。
鎮静を遅らせるのではなく、
発作の最初の波をずらし、
脈の乱れを浅くするためのものだ。
効く保証はない。
でも、試さなければ次も同じだ。
部屋を出た、そのとき。
廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「リゼット様」
マルタだった。
顔色が、いつもより険しい。
「旦那様が」
それだけで十分だった。
「お部屋ですか」
「いえ、書斎です。急に席を立たれて」
二人は急いで廊下を進む。
書斎の扉の前には兵が一人いたが、マルタを見るとすぐに道を開けた。
扉が開く。
その瞬間、空気の濃さが違うと分かった。
暖炉の熱。
散らばった書類。
床に落ちた羽根ペン。
そして窓際で、机に手をついているアルヴェイン。
呼吸が浅い。
肩が強張っている。
高い襟の下から、すでに黒い紋様が浮き始めていた。
「辺境伯」
「来るな」
低い声。
でも、それは拒絶ではなかった。
巻き込みたくない人の声だ。
リゼットは立ち止まらない。
「今日は試したいことがあります」
「勝手に決めるな」
「決めていません」
リゼットはまっすぐ言う。
「今から試すんです」
そう言いながら、机上の時計を見る。
前兆からここまで、だいたい一刻弱。
記録どおりだ。
マルタが心配そうに口を開く。
「何をすれば」
「明かりを少し落としてください」
リゼットは答える。
「それから水を。昨夜の香油は持ってこないでください」
「分かりました」
リゼットはアルヴェインのそばへ行く。
手首に触れようとした、その瞬間。
反射的に腕を払われた。
「触るな」
鋭い声。
でも力は乱れている。
普段の彼なら、もっと正確に距離を取るはずなのに。
今は、それができていない。
リゼットは払われた手を引っ込めなかった。
「触れなければ診られません」
「必要ない」
「必要です」
灰色の瞳が、痛みの奥からこちらを睨む。
怖くないわけではない。
この人は強い。
発作の最中ですら、自分を傷つけることくらい容易いだろう。
それでも、引く理由にはならなかった。
「前回と違います」
リゼットは落ち着いて言う。
「今回は、起きてから抑えるんじゃなくて、起き方を変えたいんです」
「……何を」
「あなたの体が、発作の流れに引きずられないようにします」
アルヴェインは苦しげに息を詰めたまま、数秒沈黙した。
その間にも、黒い紋様はじわじわと広がっていく。
待っている時間はない。
リゼットは一歩近づいた。
「怒るなら後にしてください」
そして、彼の手首を取る。
熱い。
前回と同じ熱。
でも今日は、脈の跳ね上がりが少し早い。
昼の薬が引き金になっている。
やはり外れていない。
「……お前」
「深く息をしてください」
「できるように見えるか」
「できなくても、しようとしてください」
強引だと分かっていた。
でも、今はそれくらいでないと届かない。
リゼットは小瓶の栓を抜き、ごく少量を布へ落とす。
それを彼の手首の内側へ押し当てた。
直接飲ませるのではなく、まずは皮膚反応を見る。
アルヴェインの眉が深く寄る。
数拍。
五拍。
七拍。
脈の乱れが、わずかに浅くなる。
リゼットは息をのんだ。
効いている。
ほんの少し。
でも、変化はある。
「……よかった」
「何をした」
「反応の順番をずらしています」
リゼットは脈を追いながら答える。
「前回の薬は、痛みのあとを鈍らせるだけでした。これは最初の波を崩します」
「そんなことが」
「たぶん、一度だけなら」
言い切らない。
まだ怖いからではない。
事実として、それ以上は分からないからだ。
マルタが灯りを落とし、水差しを置いて下がる。
部屋の明るさが少しやわらぐ。
リゼットは次に、アルヴェインの首筋へ視線を向けた。
黒い紋様の出方が、前回と微妙に違う。
広がる速さが一定じゃない。
途中で引っかかっている。
薬が、入り口で噛み合った証拠だ。
「首元を見せてください」
「何だと」
「見ないと、次が打てません」
「自分で見ろ」
「襟が邪魔です」
アルヴェインが露骨に顔をしかめる。
発作の最中なのに、その反応だけ妙に人間くさい。
リゼットは少しだけ息を整えた。
ここから先は、前回より距離が近い。
近すぎる。
契約花嫁。
形式上の妻。
そういう言葉で説明はできる。
でも、今の胸の音までごまかせるわけではなかった。
「……失礼します」
返事を待たず、襟元の留め具に手をかける。
固い布の下から、熱が立ちのぼる。
留め具を外し、襟を少しだけ開く。
黒い紋様が、鎖骨の近くまで伸びていた。
ぞくりとするほど異様なのに。
同時に、痛々しいほど整っている。
人を傷めつけるために、
丁寧に作られたような線だった。
リゼットは指先で触れそうになって、止める。
「……ためらうのか」
低い声が落ちる。
リゼットは顔を上げた。
アルヴェインは痛みの中でも、こちらを見ている。
その目にあるのは、からかいではない。
試すような色だ。
「ためらいます」
リゼットは正直に答える。
「でも、やめません」
彼の目が、ほんのわずかに揺れた。
リゼットは息をつき、今度こそ指先で紋様の縁を追う。
熱い。
でも、その熱の中に、冷たい芯がある。
そこだけ反応の質が違う。
核だ。
「ここです」
「……何」
「広がっているように見えて、起点は一つです」
リゼットは静かに言う。
「ここから流れが散っています」
小さな薬匙で別の液をすくい、紋様の起点へごく薄く塗る。
もし外せば逆効果かもしれない。
でも、この冷えた芯に届かなければ、何も変わらない。
数秒、沈黙。
アルヴェインの息がひとつ、大きく乱れる。
「リゼット様……!」
マルタの声が震える。
「まだです」
リゼットは自分にも言い聞かせるように答えた。
逃げない。
見ろ。
変化を追え。
脈。
呼吸。
肩の緊張。
瞳の焦点。
やがて、強張っていた彼の指先がほんのわずかにゆるむ。
紋様の先端が、それ以上伸びない。
リゼットは思わず息を止めた。
止まった。
いや、完全ではない。
でも、流れが鈍っている。
アルヴェインも気づいたのだろう。
苦しげなまま、低く呟く。
「……浅い」
「はい」
思わず声が弾みそうになるのを抑える。
「いつもより浅いです。波が崩れています」
アルヴェインは目を閉じ、壁へ預けていた体重を少しだけ戻した。
前回ほど追い込まれていない。
痛みはある。
でも、飲み込まれてはいない。
それだけで十分、成果だった。
マルタが静かに涙ぐむ気配がする。
「こんなこと……初めてです」
リゼットは返事をせず、まだ彼の手首を取ったまま脈を見ていた。
落ち着くには早い。
ここで気を抜けば、また跳ね返される。
「もういい」
アルヴェインが言う。
「よくありません」
「お前は」
「あなたがそう言うのは、たいていまだよくない時です」
アルヴェインがうっすら目を開ける。
痛みの合間なのに、その目には呆れに近い色があった。
「……誰にでもそうするのか」
不意の問いだった。
リゼットは一瞬、意味を取り違えそうになる。
誰にでも、こんなふうに踏み込むのか。
触れて。
言い返して。
命じるように息をさせて。
ここまで距離を詰めるのか。
胸がどくりと鳴る。
「患者には必要なことをします」
「患者、か」
その言い方が少しだけ低くなる。
満足でも不満でもない、判別のつかない音。
リゼットは手首から目を離さずに言った。
「……あなたが嫌なら、次はもっと距離を取ります」
言ったあとで、自分の声が少し掠れているのに気づく。
嫌だと言われたらどうするのだろう。
診る。
診るしかない。
でも、それだけでは済まない何かが胸の奥で疼いていた。
アルヴェインはしばらく黙っていた。
沈黙が、妙に長い。
やがて、かすれた声で言う。
「嫌なら、最初から許していない」
リゼットは顔を上げた。
灰色の瞳が、正面からぶつかる。
強い目だ。
でも今そこには、拒絶ではなく、
無防備に近いものが一瞬だけ混ざっていた。
心臓が熱くなる。
契約だから。
診療だから。
必要だから。
そういう理屈が、急に全部薄くなる。
この距離は、もうそれだけじゃない。
マルタが小さく咳払いをして、一歩下がった。
気を利かせたのだと分かって、余計に頬が熱くなる。
リゼットは慌てて紙を引き寄せ、震えないよう気をつけながら書きつけた。
前兆時投与、効果あり。
皮膚反応の広がり鈍化。
脈拍の乱れ、前回比で減少。
「何を書いている」
「記録です」
「今すぐか」
「今すぐです」
アルヴェインは小さく息を吐いた。
苦笑に近い、短い音。
こんなときに笑う人だっただろうかと、リゼットは少しだけ目を疑う。
発作の熱は、まだ残っている。
でも、部屋の中にはそれとは別の熱が立っていた。
誰も言葉にしない。
言えない。
契約の名を借りた距離の中で、その輪郭だけがじわじわと濃くなっていく。
やがて脈がある程度落ち着いたのを確認して、リゼットはようやく彼の手首から手を離した。
離した瞬間。
自分がどれほど強く触れていたのかに気づく。
そこに残る体温が、ひどく惜しかった。
「今夜は無理をなさらないでください」
「命令か」
「提案です」
「そうは聞こえない」
「聞こえなくても守ってください」
アルヴェインは返事の代わりに目を細める。
その沈黙が、少しだけ穏やかだった。
「お部屋までお送りします」
マルタが言う。
「……いらん」
そう言って立ち上がろうとした瞬間。
わずかに体が揺らぐ。
リゼットは反射的に腕を支えた。
「……離せ」
「立ててからにしてください」
「お前は本当に……」
最後まで言わず、アルヴェインは諦めたように息をつく。
そのまま数歩だけ、リゼットの支えを受け入れた。
近い。
肩越しに伝わる熱。
布越しでも分かる体温。
それがもう発作の熱だけではない気がして、リゼットは息を整えるのに必死だった。
書斎の扉まで来たところで、アルヴェインが不意に立ち止まる。
「リゼット」
また名前を呼ばれる。
前よりも自然な音で。
「……助かった」
それだけ言って、彼は今度こそ一人で歩き出した。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
それでもリゼットは、しばらくその場を動けなかった。
助かった。
たったそれだけなのに。
胸の奥へ落ちた熱が、静かに、でも確かに広がっていく。
契約花嫁。
形式だけの関係。
仮の居場所。
そんな言葉では、もう足りない何かが始まっている。
リゼットは自分の手を見る。
ついさっきまで彼の熱を測っていた指先が、まだじんと熱い。
それが薬師としての緊張だけではないことを、もう認めないわけにはいかなかった。
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