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異変に気づいたのは、夕食のあとだった。
その日は朝から、雪が細かく降り続いていた。
屋敷全体が、白い静けさに包まれている。
リゼットは作業部屋で記録をまとめていた。
けれど、ふと手が止まる。
――今夜だ。
理由を言葉にするより先に、体がそう告げていた。
記録帳に並ぶ時刻。
月齢。
前回の発作からの間隔。
そして昼にアルヴェインが飲んだ、王都から届いた補助薬。
条件が、重なっている。
リゼットは立ち上がり、棚の上の小瓶を確かめた。
今朝、自分で組み直した仮の処方。
鎮静を遅らせるのではなく、
発作の最初の波をずらし、
脈の乱れを浅くするためのものだ。
効く保証はない。
でも、試さなければ次も同じだ。
部屋を出た、そのとき。
廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「リゼット様」
マルタだった。
顔色が、いつもより険しい。
「旦那様が」
それだけで十分だった。
「お部屋ですか」
「いえ、書斎です。急に席を立たれて」
二人は急いで廊下を進む。
書斎の扉の前には兵が一人いたが、マルタを見るとすぐに道を開けた。
扉が開く。
その瞬間、空気の濃さが違うと分かった。
暖炉の熱。
散らばった書類。
床に落ちた羽根ペン。
そして窓際で、机に手をついているアルヴェイン。
呼吸が浅い。
肩が強張っている。
高い襟の下から、すでに黒い紋様が浮き始めていた。
「辺境伯」
「来るな」
低い声。
でも、それは拒絶ではなかった。
巻き込みたくない人の声だ。
リゼットは立ち止まらない。
「今日は試したいことがあります」
「勝手に決めるな」
「決めていません」
リゼットはまっすぐ言う。
「今から試すんです」
そう言いながら、机上の時計を見る。
前兆からここまで、だいたい一刻弱。
記録どおりだ。
マルタが心配そうに口を開く。
「何をすれば」
「明かりを少し落としてください」
リゼットは答える。
「それから水を。昨夜の香油は持ってこないでください」
「分かりました」
リゼットはアルヴェインのそばへ行く。
手首に触れようとした、その瞬間。
反射的に腕を払われた。
「触るな」
鋭い声。
でも力は乱れている。
普段の彼なら、もっと正確に距離を取るはずなのに。
今は、それができていない。
リゼットは払われた手を引っ込めなかった。
「触れなければ診られません」
「必要ない」
「必要です」
灰色の瞳が、痛みの奥からこちらを睨む。
怖くないわけではない。
この人は強い。
発作の最中ですら、自分を傷つけることくらい容易いだろう。
それでも、引く理由にはならなかった。
「前回と違います」
リゼットは落ち着いて言う。
「今回は、起きてから抑えるんじゃなくて、起き方を変えたいんです」
「……何を」
「あなたの体が、発作の流れに引きずられないようにします」
アルヴェインは苦しげに息を詰めたまま、数秒沈黙した。
その間にも、黒い紋様はじわじわと広がっていく。
待っている時間はない。
リゼットは一歩近づいた。
「怒るなら後にしてください」
そして、彼の手首を取る。
熱い。
前回と同じ熱。
でも今日は、脈の跳ね上がりが少し早い。
昼の薬が引き金になっている。
やはり外れていない。
「……お前」
「深く息をしてください」
「できるように見えるか」
「できなくても、しようとしてください」
強引だと分かっていた。
でも、今はそれくらいでないと届かない。
リゼットは小瓶の栓を抜き、ごく少量を布へ落とす。
それを彼の手首の内側へ押し当てた。
直接飲ませるのではなく、まずは皮膚反応を見る。
アルヴェインの眉が深く寄る。
数拍。
五拍。
七拍。
脈の乱れが、わずかに浅くなる。
リゼットは息をのんだ。
効いている。
ほんの少し。
でも、変化はある。
「……よかった」
「何をした」
「反応の順番をずらしています」
リゼットは脈を追いながら答える。
「前回の薬は、痛みのあとを鈍らせるだけでした。これは最初の波を崩します」
「そんなことが」
「たぶん、一度だけなら」
言い切らない。
まだ怖いからではない。
事実として、それ以上は分からないからだ。
マルタが灯りを落とし、水差しを置いて下がる。
部屋の明るさが少しやわらぐ。
リゼットは次に、アルヴェインの首筋へ視線を向けた。
黒い紋様の出方が、前回と微妙に違う。
広がる速さが一定じゃない。
途中で引っかかっている。
薬が、入り口で噛み合った証拠だ。
「首元を見せてください」
「何だと」
「見ないと、次が打てません」
「自分で見ろ」
「襟が邪魔です」
アルヴェインが露骨に顔をしかめる。
発作の最中なのに、その反応だけ妙に人間くさい。
リゼットは少しだけ息を整えた。
ここから先は、前回より距離が近い。
近すぎる。
契約花嫁。
形式上の妻。
そういう言葉で説明はできる。
でも、今の胸の音までごまかせるわけではなかった。
「……失礼します」
返事を待たず、襟元の留め具に手をかける。
固い布の下から、熱が立ちのぼる。
留め具を外し、襟を少しだけ開く。
黒い紋様が、鎖骨の近くまで伸びていた。
ぞくりとするほど異様なのに。
同時に、痛々しいほど整っている。
人を傷めつけるために、
丁寧に作られたような線だった。
リゼットは指先で触れそうになって、止める。
「……ためらうのか」
低い声が落ちる。
リゼットは顔を上げた。
アルヴェインは痛みの中でも、こちらを見ている。
その目にあるのは、からかいではない。
試すような色だ。
「ためらいます」
リゼットは正直に答える。
「でも、やめません」
彼の目が、ほんのわずかに揺れた。
リゼットは息をつき、今度こそ指先で紋様の縁を追う。
熱い。
でも、その熱の中に、冷たい芯がある。
そこだけ反応の質が違う。
核だ。
「ここです」
「……何」
「広がっているように見えて、起点は一つです」
リゼットは静かに言う。
「ここから流れが散っています」
小さな薬匙で別の液をすくい、紋様の起点へごく薄く塗る。
もし外せば逆効果かもしれない。
でも、この冷えた芯に届かなければ、何も変わらない。
数秒、沈黙。
アルヴェインの息がひとつ、大きく乱れる。
「リゼット様……!」
マルタの声が震える。
「まだです」
リゼットは自分にも言い聞かせるように答えた。
逃げない。
見ろ。
変化を追え。
脈。
呼吸。
肩の緊張。
瞳の焦点。
やがて、強張っていた彼の指先がほんのわずかにゆるむ。
紋様の先端が、それ以上伸びない。
リゼットは思わず息を止めた。
止まった。
いや、完全ではない。
でも、流れが鈍っている。
アルヴェインも気づいたのだろう。
苦しげなまま、低く呟く。
「……浅い」
「はい」
思わず声が弾みそうになるのを抑える。
「いつもより浅いです。波が崩れています」
アルヴェインは目を閉じ、壁へ預けていた体重を少しだけ戻した。
前回ほど追い込まれていない。
痛みはある。
でも、飲み込まれてはいない。
それだけで十分、成果だった。
マルタが静かに涙ぐむ気配がする。
「こんなこと……初めてです」
リゼットは返事をせず、まだ彼の手首を取ったまま脈を見ていた。
落ち着くには早い。
ここで気を抜けば、また跳ね返される。
「もういい」
アルヴェインが言う。
「よくありません」
「お前は」
「あなたがそう言うのは、たいていまだよくない時です」
アルヴェインがうっすら目を開ける。
痛みの合間なのに、その目には呆れに近い色があった。
「……誰にでもそうするのか」
不意の問いだった。
リゼットは一瞬、意味を取り違えそうになる。
誰にでも、こんなふうに踏み込むのか。
触れて。
言い返して。
命じるように息をさせて。
ここまで距離を詰めるのか。
胸がどくりと鳴る。
「患者には必要なことをします」
「患者、か」
その言い方が少しだけ低くなる。
満足でも不満でもない、判別のつかない音。
リゼットは手首から目を離さずに言った。
「……あなたが嫌なら、次はもっと距離を取ります」
言ったあとで、自分の声が少し掠れているのに気づく。
嫌だと言われたらどうするのだろう。
診る。
診るしかない。
でも、それだけでは済まない何かが胸の奥で疼いていた。
アルヴェインはしばらく黙っていた。
沈黙が、妙に長い。
やがて、かすれた声で言う。
「嫌なら、最初から許していない」
リゼットは顔を上げた。
灰色の瞳が、正面からぶつかる。
強い目だ。
でも今そこには、拒絶ではなく、
無防備に近いものが一瞬だけ混ざっていた。
心臓が熱くなる。
契約だから。
診療だから。
必要だから。
そういう理屈が、急に全部薄くなる。
この距離は、もうそれだけじゃない。
マルタが小さく咳払いをして、一歩下がった。
気を利かせたのだと分かって、余計に頬が熱くなる。
リゼットは慌てて紙を引き寄せ、震えないよう気をつけながら書きつけた。
前兆時投与、効果あり。
皮膚反応の広がり鈍化。
脈拍の乱れ、前回比で減少。
「何を書いている」
「記録です」
「今すぐか」
「今すぐです」
アルヴェインは小さく息を吐いた。
苦笑に近い、短い音。
こんなときに笑う人だっただろうかと、リゼットは少しだけ目を疑う。
発作の熱は、まだ残っている。
でも、部屋の中にはそれとは別の熱が立っていた。
誰も言葉にしない。
言えない。
契約の名を借りた距離の中で、その輪郭だけがじわじわと濃くなっていく。
やがて脈がある程度落ち着いたのを確認して、リゼットはようやく彼の手首から手を離した。
離した瞬間。
自分がどれほど強く触れていたのかに気づく。
そこに残る体温が、ひどく惜しかった。
「今夜は無理をなさらないでください」
「命令か」
「提案です」
「そうは聞こえない」
「聞こえなくても守ってください」
アルヴェインは返事の代わりに目を細める。
その沈黙が、少しだけ穏やかだった。
「お部屋までお送りします」
マルタが言う。
「……いらん」
そう言って立ち上がろうとした瞬間。
わずかに体が揺らぐ。
リゼットは反射的に腕を支えた。
「……離せ」
「立ててからにしてください」
「お前は本当に……」
最後まで言わず、アルヴェインは諦めたように息をつく。
そのまま数歩だけ、リゼットの支えを受け入れた。
近い。
肩越しに伝わる熱。
布越しでも分かる体温。
それがもう発作の熱だけではない気がして、リゼットは息を整えるのに必死だった。
書斎の扉まで来たところで、アルヴェインが不意に立ち止まる。
「リゼット」
また名前を呼ばれる。
前よりも自然な音で。
「……助かった」
それだけ言って、彼は今度こそ一人で歩き出した。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
それでもリゼットは、しばらくその場を動けなかった。
助かった。
たったそれだけなのに。
胸の奥へ落ちた熱が、静かに、でも確かに広がっていく。
契約花嫁。
形式だけの関係。
仮の居場所。
そんな言葉では、もう足りない何かが始まっている。
リゼットは自分の手を見る。
ついさっきまで彼の熱を測っていた指先が、まだじんと熱い。
それが薬師としての緊張だけではないことを、もう認めないわけにはいかなかった。