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朝の空気は、ちょっとだけ湿っていて、夏の気配が近づいてきている。
「おはよーみんなー!今日こそは遅刻じゃないよ!」
元気な声とともに、円(まどか)が小走りで通学路の角を曲がってくる。
ランドセルがぽんぽんと跳ね、スカートの裾がひらっと揺れた。
「ギリギリのときだけ元気出すの、円の悪いクセだ。」
前を歩いていたケイが、ちらっと振り返りながら言う。
「う、うぅ……でも、ちゃんと間に合ったもん!」
「“間に合った”か“間に合ってない”かじゃなくて、余裕を持つことが大事だって言ってるだけ。」
「そーいう理屈っぽいの、朝からはやめてぇ~……!」
横でふわっと笑ったのは、カンジ。
「おはよう、円さん。今日も元気そうで安心したよ。」
「カンジくんは優しすぎるよぉ……!」
「優しいというより、普通のあいさつだけどね」
その数歩先では、リツが鼻歌まじりに歩いていて、
ランドセルの肩紐をだらっと片方だけで背負っている。
「今日の給食、カレーだってよ。オレ様にはテンション上がるメニューだな。」
「オレも、カレー好きだぜ。まるちゃんはオレと一緒にどう?」
横からレキがニッとキザに笑って言う。
「だめだよ。レッキー。それなら僕も一緒に食べる。」
「遅れるぞ。」
ハヤテが短く声をかける。
「うん。いま行く」
変わらないペースで歩いていたハヤテは、振り返ることなくそのまま進んでいく。
夏の朝。
ランドセルの重さより、心のほうがちょっぴり軽くなる気がする。
いつもの、変わらない登校。
でも、誰かがひとこと何かを言えば。
その日の時間割は、少しだけ変わるかもしれない。
放課後…
チャイムが鳴って、教室が少しずつ静かになっていく。
ガタガタと椅子を引く音、友達同士の笑い声、廊下に響く足音。
その中を、円はひとり、ランドセルを背負って歩き出した。
教室の窓から差し込む夕方の光が、机の上をオレンジ色に染めていた。
「……ふぅ、今日もがんばった、わたし……」
小さくつぶやいて、昇降口の方へと足を運ぶ。
廊下にはもうほとんど誰もいなくて、少しだけ心細くなる。
「みんな、部活とか委員会とかあるんだもんね……」
足音がカツン、カツンと響く。
外に出ると、夏の終わりを思わせるような、少しだけ涼しい風が制服の袖をなでていった。
そして、セミの鳴き声が容赦なく響いてくる。
(ミーンミンミンミーーッ……! )
「うるさいくらい、ずーっと鳴いてるなぁ……」
空はまだ明るいけど、雲が薄く広がっていて、
学校の門を出たあたりは蝉しぐれの中に包まれていた。
ひとりの帰り道は、いつもより少し長く感じた。
ふと、前を向いたときだった。
誰かが少し先を歩いている。
すらっとしたシルエット。
その背は、レキくんと並んでもほとんど変わらないくらい高くて、
なのにしなやかでバランスの取れたシルエットだった。
その女の子が、ふと後ろを振り返った。
長いまつげの奥、クリーム色の瞳が円をじっと見つめる。
——その瞬間。
セミの鳴き声が、ふっ、と消えたように思えた。
いや、ほんとうに止んだわけじゃない。
でも、円の耳には届かなくなったみたいだった。
見つめられたまま、動けなくなる。
心臓の音だけが、静かにトクン、と鳴った。
(桜色で優しい色味の髪。前髪のあるキャンディヘア……っていうの?こんな感じの髪型、初めて見るかも)
(それに、引き込まれるようなクリーム色の瞳。イ…イケメン女子って、こういうこと言うのかな……?)
何も言わず、何も表情を変えず、
その子はただ、まっすぐに円を見つめていた。
円は、立ち止まったまま、息をのんだ。
何も言えずに固まっていた円の前で、
その女の子が、やさしく口を開いた。
「貴女が……円ちゃん?」
その声は、澄んでいてやわらかく、でもまっすぐだった。
「……はっ、はい! 『花丸 円』ですっ!」
少し遅れて、円があわてて名乗る。
声が少し裏返ってしまって、自分で恥ずかしくなった。
女の子は、ふわっと微笑む。
「じゃあ、長い付き合いになるかもね……」
風がふっと吹いて、桜色の髪が肩のあたりで揺れる。
「あたしの名前は、『道徳 ココロ』。道徳の教科書から生まれた、科目女子。」
そう言ったとき、周囲のセミの鳴き声がまた耳に戻ってきた気がした。
——でも、その名前の響きは、
きっと円の中で、しばらく消えなかった。
つづく