テラーノベル
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朝の教室はざわついていた。夏の湿気が残る廊下から、生ぬるい風が吹き込む。
遥は、机に着いていた。
無言で鞄を置き、身体を縮めるようにして座っている。
腕に残る指の跡、太ももにまだ熱の残る痕跡。
制服の下に、蓮司の名残が確かに在る。
──ばれない。ばれてない。
大丈夫。昨日の夜は、夢じゃない。
けれど、誰も気づかない。気づくはずがない。
……そう言い聞かせながらも、心のどこかで、遥は怯えていた。
斜め前の席。
日下部が、ちらりとこちらを見ていた。
視線はまっすぐではない。
けれど確実に、“遥の様子”を気にしている。
──やっぱり、見てる。
昨日、日下部に言われたことが、まだ耳の奥に残っていた。
『……お前、笑えてなかったよ。演技、下手すぎ』
唇を噛む。
手元に視線を落とす。
何かを考えるふり。ノートをめくるふり。
けれど、胸の内側はざわついていた。
(バレてる……)
──違う。
バレてるんじゃない。信じさせたい。
あの嘘を、あの夜を、全部“正しかった”って思いたいだけ。
それが逃げでも、見栄でも、くだらない理由でも。
もう、止めることができない。
「……よ」
「ん?」
不意にかけられた声に、遥はびくりと肩を揺らす。
隣に、蓮司がいた。
いつから来ていたのか。
まるで空気のように──それとも、毒のように。
「……おはよ、って言っただけ」
蓮司の声は軽い。
けれど、その目は笑っていなかった。
遥は、わずかに頷いた。
声が出なかった。喉の奥がつまったようで、何も言えない。
蓮司は椅子を引いて、いつものように机に肘をつけた。
その姿を、日下部がまた見ていた。
真っ直ぐではない、横目の視線。
でも、それは“確かに注がれている”。
蓮司は、それに気づいていた。
それどころか──楽しんでいた。
「……なんかさ、朝から妙に静かだね、教室。気のせい?」
遥は、答えられない。
(何が“気のせい”だよ……)
全部、蓮司が仕組んだことだ。
女子の苛立ちも、空気の歪みも。
昨日、あの教室で「遊び場」を宣言したのは、他でもないこの男だった。
蓮司は、遥の机の下に隠れたままの手に、そっと触れる。
誰にも見えない場所で、軽く指を這わせた。
遥の喉が、ごくりと鳴る。
耐えるように目を閉じた瞬間、蓮司が囁く。
「ねぇ、“本物の彼氏”っぽく、ちゃんと見えてると思う?」
その言葉に、遥は目を開いた。
けれど答えられない。
視線を向ければ、日下部がまだこっちを見ている。
蓮司は、くすっと笑った。
「じゃあ……もっと、演じる?」
その問いかけに、遥は──答えなかった。
でも、その沈黙がすでに“肯定”だった。
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