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気づいたのは、4度目に同じ足音を聞いたときだった。
霧の向こうから迫ってくる「ザッ、ザッ、ザッ」というリズム。
完璧に揃っている。乱れがない。疲れる気配がない。
真田翼は立ち止まり、耳を澄ませた。
背後から、左の暗がりから、右の霧の奥から、まったく同じリズムの足音が重なって聞こえてくる。
おかしい。これは、人間の走り方じゃない。
手首のスマートウォッチを見た。
GPSの青いドットが、地図の上で激しく跳ね回っている。
右へ50メートル飛び、左へ100メートル飛び、そのまま地図の外へはみ出す。戻ってくる。また飛ぶ。
スマートフォンは完全に圏外。頼れるのはこのデバイスだけだ。
そのデバイスが、今、壊れている。
翼は深呼吸して、来た道を思い返した。
どこで間違えた? なぜこうなった?
30代半ば。
かつては表彰台の常連だったが、今では「中堅」と呼ばれる年齢になっていた。
変化は少しずつ始まっていた。
毎朝、起き上がる前にスマートウォッチの画面を確認する。
睡眠スコアが悪ければ、その日1日が暗くなる。良ければ、ようやく深呼吸できる。
レースの前夜は、スコアを確認しないと眠れない。
起床直後の安静時心拍が少し高いだけで、スタートラインに立つ前から体が縮こまる。
デバイスが「走っていい」と言えば走る。「休め」と言えば休む。
それがいつの間にか当たり前になっていた。
最初は補助のつもりだった。
心拍数を管理すれば効率が上がる。ケイデンスを数値化すれば改善できる。睡眠データで疲労をコントロールできる。
そう信じて、頼るものを1つ、また1つと増やしてきた。
気づいたときには、数値で承認されないとまともに走れない体になっていた。
今週の月曜日。スマートウォッチの画面に嫌な表示が出た。
『予測タイム:低下』
『VO2Max:50(減少トレンド)』
白い息が冬の山林に消えていく。
「くそっ――」
停滞を打ち破るために、翼は「それ」を選んだ。
山の入り口に、錆の浮いた鉄板の立て看板があった。
【これより先、遭難者多発のため全面通行禁止】
地元では『亡者道』と呼ばれる旧山道だ。
凄まじい急勾配のせいで練習効率は高いが、過去に何人ものランナーが消息を絶っている。地元のランナーなら誰も近づかない場所だった。
名前の由来は聞いたことがあった。
明治時代の坑夫が山中に迷い込み、何日も彷徨った末に集団で消えた。
その後もハイカーが戻らない。猟師が入ったまま戻ってこない。
#お仕事
#秘密
それが繰り返されてそう呼ばれるようになったのだと。
都市伝説だと思っていた。
翼は立て看板を跨ぎ越えた。
木々の密度が増し、空が細い隙間からしか見えなくなる。
踏み込むたびにぬかるみが深く沈む。
数分で濃い霧が立ち込め、視界が数メートルまで狭まった。背後の登山口も見えなくなる。
最初の分岐に差し掛かった瞬間、デバイスが悲鳴を上げた。
「ピピピピピ……!」
青いドットが地図の上で激しく暴れ始める。
そのとき、「ザッ、ザッ、ザッ」と規則正しい足音が前方から近づいてきた。
霧を割って現れたのは、1人のランナーの背中だった。
無駄のないピッチで霧の中を走っている。泥濘の急斜面を、まるで舗装路のように駆けていく。
『前方に先行ランナーを検知。追従を推奨します』
見覚えのない通知が画面に浮かんだ。そんな機能は設定した覚えがない。
でも今は、それより先行者の存在の方が重要だった。ルートを知っているらしい人間がいる。
翼は、その背中を追った。