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#お仕事
#秘密
前方のランナーは、信じがたいペースを維持していた。
泥濘の急斜面を、時速15キロ以上で平然と駆け上がっていく。
声をかけようとピッチを上げた。
心拍数が跳ね上がる。ふくらはぎが悲鳴を上げる。
足首がぬかるみにとられ、そのたびにフォームを修正する。
それでもおかしかった。
どれだけスピードを上げても、相手との距離が縮まらない。
スマートウォッチが計測するパワー数値は個人最高をすでに更新していた。
通常の2割増しの出力を出しているのに、前との差はぴたりと30メートルを保ったまま動かない。
「おい、ちょっと待ってくれ! ルートを確認したいんだ!」
返事はなかった。足音の刻みも変わらなかった。
15分ほど走ったとき、道が大きく右へ折れ、一面の沼地に出た。
黒に近い濁った水が広がり、その縁に踏み固められたような細い道が続いている。
足を踏み入れると、ぬかるみが踝を超えて膝近くまで沈んだ。
前方のランナーは気にする様子もなく、沼の縁をリズムよく走り続けている。
沼を抜けたとき、見覚えのある場所に出た。
奇妙にねじ曲がったブナの巨木。
幹が3方向に裂けて、3本の腕を広げているような形の木。
(さっきも通ったはずだ)
1度目は特徴的だと思った。
2度目に通り過ぎたとき、足を緩めた。
3度目に同じ木を見たとき、全身の皮膚が粟立った。
スマートウォッチのGPSログを確認する。走行距離「4.7km」と表示されている。
視覚的な記憶では、同じ場所を何周もしている。
試しに、さっき通り過ぎた水たまりを探した。
あった。同じ形の水たまりが、同じ場所にある。
次の分岐を右へ曲がった。斜面を上り、岩場を越え、5分走る。
また、あの水たまりが目の前に現れた。
(ルートがループしている)
GPSは「前進している」と言い続けている。
それなのに、実際にはどこにも進めていない。
そして、気づいた。足音は前方だけではない。
背後から。左の霧の奥から。右の暗がりから。
無数の「ザッ、ザッ」という音が、四方から迫ってくる。
全員が同じリズムで、完璧に揃っている。
「対向ランナー……? 多すぎる――」
霧を割って、集団が現れた。
すれ違いざまに、翼は息をのんだ。
全員が同じように泥に汚れ、同じように擦り切れたウェアを着ていた。
そして、その顔に――。
目があるべき場所に、ただ暗い空洞が穿たれていた。
白目も黒目もまぶたすらない。あるのはただ、深い穴だけ。
彼らは呼吸音ひとつ立てず、機械のように走り続けている。
汗もない。表情もない。
手首のデバイスが、激しくバイブレーションを始めた。
『警告:集団に接近中』
『警告:周囲のペーシングに同期してください』
この山に取り込まれた遭難者たちだ、と本能が告げた。
彼らはかつて、翼と同じようにこの道を走ったのだ。そして戻れなくなった。
集団の1人が、ほんの一瞬だけ、首をこちらへ向けた。
空洞の奥に、スマートウォッチの液晶に似た光が瞬いた。
規則正しい点滅。データを送受信しているかのような光だった。
1度でも足を止めれば、あの空洞になる。
彼らに混じって、永久に走り続ける群れの一員になる。
翼はそう確信した。
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