奇襲
「いよいよだな」一刀斎が土間に足を下ろして言った。
「兄ぃ、俺も行く!」銀次が布団から這い出して来た。
「馬鹿、お前ぇはまだ動ける状態じゃねぇだろ、ここで大人しく吉報を待ってな」
「そうよ銀ちゃん、無理しちゃ駄目、きっと仇を討って帰ってくるわ」志麻も銀次を気遣って口を添えた。
「そろそろ出発するぞ」慈心が提灯に火を入れながら言った。今日の慈心は常寸の打刀を腰に帯びている。
「武運を祈ってるよ」お梅婆が切り火を打った。
「行って来ます」お梅と銀次に声をかけて志麻が引き戸を閉める。
慈心が先頭に立って木戸を出た。中に志麻を挟むようにして一刀斎が殿しんがりに付く。
「昨日瓦版屋に号外を出して貰った、見物人が大勢集まる筈だ」一刀斎が言った。
「江戸っ子は仇討ちが好きじゃからな、芝居見物でもするつもりで来るじゃろう」
「ああ、この前ペルリの黒船が来た時も、最初はビビってたくせにすぐに慣れやがったからな」
「長屋の秀さんなんか、健太連れて弁当まで持って行ったんだからね」
「ははは、まるで物見遊山だな」
一刀斎が呆れて笑った。
「それがこっちの狙いじゃ、大衆の面前なら奴らも卑怯な真似は出来まい」
「それだけに、道中を気をつけなきゃね」
「提灯が狙われる、爺さん気をつけな」
提灯は足元しか照らさない、勢い遠くは見え難くなる。
「分かっておる、心配せんで良い」
それからは皆無口になって黙々と歩いた。 どれくらい歩いただろう、前方の川の上に黒い橋影が見えた、駒塚橋だ。
「この橋を渡れば関口村、そこを過ぎれば下戸村だ、高田の馬場はもうすぐだぞ」
「油断大敵だ、この狭い橋の上で襲われれば逃げ場は無い」
橋畔に着いたが何事も起こらない。静けさが返って不気味さを増す。
対岸の暗闇で人の動く気配がした。慈心が提灯を持ち上げいきなり吹き消した。
「走れ!」提灯を捨てて走り出す。志麻と一刀斎も後に続く。
志麻は鬼神丸を抜いた。
ヒョウ!と矢羽が風を切る音が聞こえた。
「わっ!」志麻の手の内で鬼神丸が生き物のように動いた。
「すげぇな!」一刀斎の声に立ち止まる。
両断された矢が橋上に落ちていた。
「私じゃ無い!」
「それでもすげぇ!」
橋の両側から喊声かんせいを上げて敵が殺到した。矢はもう飛んで来ない。
「俺は後ろをやる!爺さんと志麻は前を頼む!」
「心得た!」慈心が突っ込んで行く。
「私も!」
背後で悲鳴が上がる、一刀斎がもう何人か斬り倒したようだ。
前方でも声が上がり、次々と人が欄干を越えて落ちて行く。
慈心の討損ねた敵が志麻に向かって駆けて来た。今度は鬼神丸は動かない。
「自分でやれって事ね!」
敵の剣が頭上に迫った時、瞬時に膝を抜いた。右の脇に構えた鬼神丸を敵の打ち込みに合わせて前に送る。左の肩先を敵の剣が掠ったと同時に鬼神丸が敵の鎖骨を断ち斬った。
絶叫を残して敵が川に落下した。
目を挙げると前に敵がいた。既に切っ先が鳩尾に迫っている。
「間に合わない!」
言うより早く鬼神丸が蛇のように跳ね上がって、敵の剣を宙高く弾き飛ばしていた。
志麻は手元をグイと引き下げて袈裟懸けに引き斬った。
敵は橋の上に突っ伏して動かなくなった。
「今のは半分あなたで、半分私ね」鬼神丸に声を掛けると、手の中で震えた気がした。
気がつくと辺りが静かになっていた。
「終わったぞ」一刀斎が近寄って来た。
「お爺ちゃんは?」橋の向こうを透かして見る。
「ここじゃ!」
慈心は半弓を持った敵を捕まえていた。刀の下緒を奪って、後ろ手に縛り上げている。
「此奴は証人じゃ」そう言ってカラカラと笑った。
「さあ行こう、そろそろ東の空が明るくなる頃だ」
一刀斎が刀身を拭った懐紙を欄干から放り投げると、黒い川の流れに吸い込まれて行った。
三人は明け始めた空を見上げて、高田の馬場へと足を早めた。
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