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人の身柄が宙を舞うところを初めて見た。
いやあれは、そんなに生易しいものじゃなかった。
さながら剛速球と化した彼女の体躯は、私たちの横合いをビュンと通り過ぎ、群生する木立を直撃。
粉々に散けた屑物と一緒くたに、公園のほうへ転がり込んでしまった。
「………………」
私たちは皆、判で押したように唖然としていたが、手を下した当の怪物もまた、人並みの躊躇いに似たものを滲ませているように見えた。
もちろん、相手は表情の読めない節足動物のことである。
こちらが都合よく解釈しただけかも知れないが、明らかに登場時の活きの良さを失っている。
かの巨体が、幾分にも萎んでいるような錯覚がした。
“やっちまった”
その時の彼の心情を代弁するなら、こんな感じだろうか。
恐怖のあまり、思わず先に手を出してしまった。 あとの報復を、まったく勘定に入れることなく。
「なんか………」
「かわい……くはない……!」
「ん……」
妙な話ではあるが、情に絆されるとはこういう事を言うのだろうか。
それよりも、問題は彼女だ。
今しがたの生木が裂ける音、地鳴りを彷彿とさせる轟音が、いまだ耳の奥にしつこく残っている。
目を眇めて確認すると、派手に砕け折れた木々が重なり合い、台風後の気色にも似た様相を呈している。
どれほど強烈な慣性が働こうとも、人体の強度は限られている。断じてああはならない筈だ。
“あのヒトはたぶん、人間じゃない”
おいそれと鵜呑みにはし難い所感であるが、そう思い至るのも無理はない。
世の中にはまだまだ未知のことが沢山あるし、それを柔軟に受け止めることができるのは、子供たちの特権だったろう。
現に、幾分にもショボくれた印象とは言え、我々の近くにはザリガメという怪物がたしかに居座っている。
純な冒険心に駆られた私たちは、知らず知らずの内に、踏み込んではいけない領域に足を踏み入れてしまったのだろうか。
「………………っ!?」
それぞれ言葉を失う中、公園の方角より何やら恐ろしい気配が膨れ上がるのを感じた。
身の毛がよだつとは言い得て妙だ。
真夏日の暑さが、一瞬で遠のいた。
「いや……ッ、待て待て待て!!」
慄然とする私の耳は、たしかにそんな風なセリフを聴いた。
自分に言い聞かせるような。己の手綱を力任せに締め上げるような語気だったと思う。
程なく、肌身を席巻した冷感と言おうか、戦慄の気は鳴りを潜め、ふたたび盛夏の熱気が首筋をじりじりと焼いた。
「油断した。くそ……ッ」
間を置かず、足元に散らばる木端(こっぱ)を踏み分けながら、彼女がこちらに歩いてくるのが見えた。
何となく予想できた事だが、その身柄に深刻な痛手を負っている様子はない。
ただ怒り肩を戦慄かせて、ずんずんと歩みを進めている。
目指す先は決まっていた。
これはさすがに、当事者でなくとも逃げ出したくなる。
背に負った気炎は、可視が適いそうなほど万丈に燃えていたし、身体のあちこちに細かな雷が這っているようにも見えた。
彼女がどのような存在であれ、恐らくこの後は悲惨な展開が予想される。絵に描いたような報復劇だ。
「………………」
片や、自然の摂理に反した生き物に、片やその摂理すらも手中に納め、平らげようかという女丈夫。
図らずも彼の怪物に──、ザリガメに同情の念を及ぼしてしまうのは、これもまた私たち人間の、ひとつの身勝手だろうか。