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必死に無言を貫き、おとなしく聞き手に徹している坪井と笹尾の間に割り込むように高柳が歩み寄る。
それから、そっと耳打ちをした。
笹尾に、だ。
「笹尾さん、立花さんの印鑑は特徴ありますね、ピンクのケースで猫なんかついていて可愛らしい。すぐに彼女のものだとわかりますね」
「……え? はい」
「今日営業部にそれを忘れて行ったのは偶然でしょう、これまでにも何度かありましたから」
「……はい」
「それを知った上で、突発的に思い付いたのか、計画的にずっと頭にあったことなのか。 わかりませんが、こちらの件に関しても、次はないと思って下さい」
高柳の影を避け、笹尾の表情を見る。やはり、なぜ、部長まで立花さんを庇うんですか? そう、目が訴えていた。
「人は大抵猫をかぶって生きてるものです。彼女の印鑑のように本当に可愛らしい猫になる必要はありませんが」
高柳の低く無機質な声が、何とか坪井にも届くくらいの小さな声で話し続けている。
「人が離れていかない自分というものを、彼女を模範して演じていなさい。君には、直接的に”変われ”と言うよりも、それが手っ取り早いでしょう。要領良く働いていたいなら、ですが」
「……は、はい」
「俺は、職場に身内感覚の馴れ合いはもちろん求めませんけど。意思疎通ができないほどに凝り固まっていることも求めていません。程よくお願いします」
ゆっくり言い聞かせるように伝えられた言葉。それは、坪井への忠告であるようにも聞こえた。
そうでなければ、聞こえないように配慮して笹尾に伝えるのだろうから。
その後はパッと姿勢を戻し、今話し始めましたと言わんばかりの様子で、川口にも聞こえる、フロアに通る声で話し始めた。
「笹尾さん。川口のことは申し訳なかったね。また次に何かあれば、増員や担当の入れ替えも含めて検討しますので」
背後で「ひぃ……! 本社に居させて下さいぃ!」と情けない川口の声が響いてきた。笹尾も川口も変わらず二課にいるというのなら、高柳の言うとおり”楽”だけはしないでいてもらいたい。
コソッと笹尾に声を掛ける。
「ねえ笹尾さん、川口さんのこと頑張って手懐けてね。まさかもう立花に迷惑かけることなんてないと思うけど」
坪井の声を聞いて、背筋を伸ばした笹尾が「わかりました」と、焦ったように答えた。その声の、不服そうだが”それを隠さなきゃ”と耐える、震えながらも強気な様子。
不服さが隠せていないのは、もちろん気に食わないけれど。笹尾は当分”真衣香絡み”に関しては、大人しくしているだろうし。その笹尾が川口をうまく押さえ込んでくれていたなら、この2人が総務を巻き込むこともなくなるだろう。
仕方ないな、こんなもんか、と。なんとか自分に及第点をつけてやった。
折り合いをつけたところで「あ、まだみんないるみたい」と、エレベーターの扉が開かれる音と同時に小野原の声が聞こえた。
振り返ると、エレベーターから降りてきた数人のうち、先頭はやはり小野原で。次に、おずおずとこちらを覗き込むように見て、出てきた立花の姿と、その腕にギュッと掴まる森野の姿が見えた。
坪井はそんな3人の様子を何度かまばたきを繰り返して、眺めた。
(小野原さんは、まあともかく。森野、いつのまに立花に懐いてんだ?)
つい先月までは、あからさまに真衣香をバカにしていた側の人間が、川口から庇うようにガッチリとガードして歩いてくる姿は、不思議なものだった。