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「おはよう、美幸。早く顔を洗ってらっしゃい。ぐずぐずしていると塾の夏期講習に遅れるわよ」
「はぁい」
夏休みに入っても、朝の慌ただしさは変わらない。
いや、学校なら給食があるが、塾へ行く美幸のためのお弁当作りがある分、余計に忙しい。
ダイニングテーブルの上には、3人分の朝ごはんが並んでいる。スクランブルエッグにソーセージとサラダ、味噌汁とご飯の定番のメニューだ。
寝起きの悪い娘を急かし、のんびりと寛ぐ夫に声を掛ける。
「政志さんも新聞読むの止めて、ごはん食べて」
「はいはい」
政志は、面倒くさそうに息を吐き、畳んだ新聞をテーブルの横に置く。
注意されるのが嫌なら、自分で時間を見て行動してくれればいいのに。と紗羅は不満気に食事を始める。
例え、口うるさいと思われても、家族のためにうるさくしているのだ。
「ねえ、今日も帰り遅いの?」
ふと思い立ち、紗羅は政志へ声を掛けた。
「ああ、夏休み取るのに、前倒しの仕事が山積みなんだ。残業手当も付かないのに嫌になっちゃうよ」
役職手当の代わりに残業手当がカットだなんて、理不尽な気がする。けれど、政志に文句を言っても仕方ない。それに、政志こそが不満に思っているはずだ。
だから、そのことには触れずにいた。
「毎日、遅くまでご苦労さま。あのね、相談したいことがあるんだけど、今度、早く帰った時に聞いて欲しいの」
もちろん、相談したいのは例の無言電話の件だ。それなのに、のんきな政志は的外れなことを自信満々で言い出す。
「それって、帰省の話しだろ。お土産もいつものヤツでいいよ。買って置いて」
その言葉を聞いて、美幸がパッと目を輝かせた。
「お盆休み、おばあちゃんちに行くの?」
「そうだよ」
「やったー! なっちゃんに会える」
なっちゃんとは、 夫の兄の子供、つまり美幸にはイトコにあたる菜美のことだ。義兄夫婦は政志の実家からスープの冷めない距離に居を構えている。
実家に帰るのは、夏休みと正月休みの恒例行事。政志にとって懐かしい家。
しかし、沙羅には気疲れのする場所だ。
座ってて良いと言われ、素直に座っていれば、気の利かない嫁。気を利かせて、台所に立てば出しゃばりと言われる。それでいて小間使いのように一日中、雑務を言いつけられるのだ。
正直言って、政志の実家への帰省は気が重い。
暑い中、お土産を買いにデパートへ行くのも罰ゲームのような感覚だ。
どんなに幸せな家庭にも小さな不満はあるものだ。と紗羅は自分に言い聞かせ、デパートの入口にあるカラクリ時計を見上げる。
今の時刻は、午前11時5分。
一通りの家事を終えてからと、バタバタしている内に、うっかり電車を一本乗り逃してしまったのは失敗だった。人形の背中を最後にカラクリの扉は閉じ、味も素っ気もないただの時計になってしまった。
些細な楽しみを逃した事を残念に思いながら、重厚なエントランスを抜ける。特別な記念日でしか手の出ない、お気に入りのブランドショップを横目に、エレベーターで下る。辿り着いた地下の食品売り場は、平日にも関わらず、買い物客で賑わっていた。
有名な老舗メーカーの羊羹や小分けにされたカステラなど、政志が気軽に言う、いつものお土産を買い求め、人の合間を縫うように歩く。
政志の実家だけでなく、近所に住む本家や兄夫婦へのお土産も必要なのだ。
お土産の数だけ、おサイフは軽くなり、それと反比例して、紗羅の気持ちは重くなる。
だんだんと増えていく買い物袋に、両手いっぱい塞がれる。
ひとつひとつは大した重さじゃないが、数が増えれば、地味に重いし、かさ張るから喫茶店にも入りづらい。
おまけに帰りの道中、炎天下の中、日傘もさせないとなると、本当に罰ゲームとしか思えなかった。
デパートに来たのに何一つ楽しくない。
「はぁ」と幸せが逃げて行くような大きなため息を吐きだし、このまま家に帰ろうと上りのエスカレーターを探し、辺りを見回す。
「いらっしゃいませ。ご試食いかがですか?」
お煎餅屋さんのカウンターの中から声が掛かり、振り返る。聞き覚えのある声の主は、高校時代と笑顔が変わらない日下部真里だった。
「えっ! もしかして沙羅⁉」
「やだ、真里じゃない。久しぶり元気だった?」
15年以上も会っていなかった同郷の真里とのまさかの再会に、ふたりして声を上げた。しかし、真里は仕事中。他の店員さんの冷たい視線に思わず肩をすくめる。
「うるさくしちゃって、ごめんなさい。このお煎餅買わせて」
お互い顔を見合わせて、クスリと笑い。真里は茶目っ気いっぱいに声を上げる。
「お買い上げありがとうございます。ご自宅用の包装でよろしいですか?」
「うん、自宅用で。ごめんね、買い物する前なら売上げ協力出来たのに」
沙羅は、両手にぶら下がる荷物へ視線を落とした。真里は、その量に目を丸くする。
「たくさん買ったのね。その荷物急ぎなの?」
「週末帰省する時のお土産なの」
「じゃあ、自宅配送にすれば明日受け取れるわよ。店内の買い物ならまとめて送れるから、売り場から出して上げる」
聞けば、デパートの宅配サービスで、デパート内の買い物ならどの売り場からでも、わずか330円の配送料金で、まとめて自宅配送を受付けしてくれるそうだ。
そんな便利なサービスがあるならと、早速お願いをした。
すると、真里がふふっと笑う。
「それで、身軽になったところで、この後時間ある? わたし、もう少しでお昼休憩なの。良かったら一緒にランチしない?」
久しぶりの再会を嬉しく思い、沙羅はふたつ返事でOKした。
気鬱だった買い物が、一気に華やいだものに変わる。
ランチにと待ち合わせたお店へ、沙羅は一足先に向かう。
デパート裏手にある居酒屋「峡」を見つけ、暖簾をくぐった。
昼間は、お手頃価格のランチメニューのみの営業で、デパート従業員御用達の隠れた名店だと、真里に薦められて来たのだ。
半個室になっている木目調の店内は、落ち着いた雰囲気でランチタイムなのにゆったりと寛げる。
温かいおしぼりと氷が入った麦茶のおもてなしも嬉しい。
3つあるランチメニューの中から、Cセットのブリ大根定食を注文して、温かいおしぼりで手を拭う。
日焼け止めとファンデーションを塗りたくった顔を、このおしぼりで拭いたら、さぞかしさっぱりして気持ちが良いだろう。と、この時ばかりは、世の中のオジサン達を羨ましく思ってしまった沙羅だったのだ。
程なくして、真里が現れ、向かいの席に腰を下ろした。
「お待たせしてごめんね。なに頼んだ?」
沙羅がCセットを頼んだと答えると、真里はBセットのとんかつ定食を注文する。
その様子を紗羅は、苦笑いでやり過ごす。
目の前に置かれた麦茶をゴクゴクと飲み干した真里は、口がなめらかになったのか話し始める。
「それにしても久しぶりだよね。まさか都内で会うなんて思わなかったよ」
「そうね。私は進学で田舎を出て、結婚して直ぐに子供が産まれたから同窓会にも行けなくて……」
都内から新幹線を使えば2時間半で帰れる故郷。だが、既に両親を亡くした紗羅にとって、帰る家が無い。近くて遠い故郷なのだ。
「お互い35歳だもんね。結婚もするよねー。わたしは、地元で就職してから、暫くして結婚したんだけど、旦那に浮気されて、晴れてバツイチ。せっかくだから都会で暮らしてみようかなって、上京して来たの」
「真里は離婚したんだ。大変だったね」
「まあ、ウチの場合は夫の浮気で慰謝料もらって、さようなら。幸い、子供もいなかったしね」
あっけらかんと話す真里だったが、離婚までの道のりは、けして平坦ではなかったはずだ。
一生を共にすると誓ったはずのパートナーの裏切り。それを知った瞬間、何を思ったのだろう。
想像するだけでも、沙羅は胸が苦しくなる。
結婚して13年、不満はあっても不安は無く、日々を過ごせている。そんな自分は、とても幸運だったのかも知れない。
「真里は、こっちで暮らして良かった?」
ふふっ、と含み笑いを浮かべ、真里はおしぼりで手を拭いた。
「田舎にいるよりも出会いは多いし、自由でいいわ」
「そう、良かった」
離婚を経験しても悲壮感がない真里の様子に沙羅は胸を撫で下ろす。
このタイミングで注文した定食が運ばれて来た。真里の前には、とんかつ定食、沙羅の前には、ブリ大根定食。
ブリ大根から、煮汁の香りがほわ~っと漂い、食欲をそそられる。
いただきますと手を合わせると、真里からの提案でとんかつとブリのシェアが提案された。
サクッとキツネ色に揚げられた、とんかつの誘惑に負け、沙羅はうなずく。
真里はとんかつを差し出しながら、話し始めた。
「わたしね。結婚した時、夫から専業主婦になってくれって言われて、寿退社にも憧れていたし、当然のように仕事を辞めたの」
「うん、私も夫に言われて寿退社したのよ」
「そう沙羅もなの。専業主婦ってどう? 寂しくない?」
専業主婦が寂しいと言う問い掛けが、ピンとこなくて問い掛けで返す。
「真里は専業主婦になって寂しかったの?」
「うん、自分で働いたお金じゃないと、何か欲しくても気が引けて買うのをためらったり、夜、友達と食事にも行けなくて、だんだんと疎遠になったり、世間から切り離されて行くようで、寂しかったんだ」
言われて見れば確かに思い当たることばかり。沙羅は何度もうなずいた。
真里は当時を思い出したのか、寂しげに目を伏せた。
「それにね。頑張って家事しても、それが当たり前で、具合悪くて手を抜くと専業主婦は楽出来ていいよなって言われて、ゆっくり寝ていることも出来ないのよ」
「そうよね。主婦業って、365日お休みが無いのに報われない事が多いのよね」
「でしょう。出かけられるけど時間に縛られ、買いたい物にお伺いを立て、召使いのように働かされているだけみたいに思えたの」
「そう……」
紗羅の胸の内にある、日々積み重ねていた小さな不満をすべて言い当てられたようで、返す言葉が見つからない。言葉に詰まる紗羅をよそに、真里は、誰かに言いたくて仕方ないとばかりにしゃべり続けた。
「その挙げ句、夫の浮気でしょう。こっちは、我慢に我慢を重ねて頑張って、そのお陰で夫は快適に暮らせているのに、浮気だなんて。”そっちこそ、お気楽でいいですね”って言ってやったわ」
「浮気は、裏切り行為だわ。許せなくて当然よ」
「まあ、浮気のおかげで離婚の時に慰謝料もらえたんだけどね。人生を新たにやり直すためのいい軍資金になったわ」
言いたい事を言い終えたのか、真里はスッキリとした顔になった。それを見て沙羅はホッと息を吐き出す。
「それで、今日の再会になったのね」
「そうね。沙羅は幸せそうに見えるけど、どうなの?」
「私? 私は、普通に主婦やってるわよ」
そう、平凡で変わらない日常がある。
夫とはそこそこ仲良く、かわいい娘の成長を楽しみに、変わらない日常を積み重ねて行こうと思っていた。
「じゃあ、幸せなのね」
真里に言われ、沙羅は言い淀む。不安の種が心にあるのだ。
「え、ええ」
沙羅は、取り立て不幸でも無ければ、幸せというほど温かな感情を感じ無い。
不幸で無く、幸せでも無い、強いて言うなら普通だ。