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「おはようございます」
「萌夏ちゃんおはよう」
社員通用口から厨房を通りロッカーへ向かいながらスタッフに挨拶をする。
昨日は明奈ちゃんの代わりに閉店まで働いたから、今日は遅めの出勤。
もうすぐお昼という時間に萌夏は出社した。
「小川さん、ちょっといい?」
通用口から入り着替えのためロッカーへ向かおうとしたところで、突然店長からかけられた声。
いつもは『萌夏ちゃん』と呼ぶ店長が急に名字で呼んだことにも違和感があり、足が止まった。
こういう時は何か良くない話をされることが多い。
えっと、何かミスをしたかなあ?
昨日は色々と大変だったけれど、明奈ちゃんの件以外にはクレームを言われた覚えもないしトラブルだってなかったはず。
考えを巡らせながら立ち止まっていると、
「いいからちょっと来て」
珍しく苛立ち気味の店長のあとについて、萌夏は事務所へ入って行った。
***
普段は店長や本部からやってきたお偉いさんが打ち合わせをしていることの多い事務室。
お説教をされるときや契約更新の時くらいしか入ることがない部屋のせいか、妙に緊張する。
それに今はお昼前の込み合う時間なわけで、シフトに入っている萌夏がいなければスタッフの負担は増えてしまう。
それを承知でしないといけない話って・・・そう思うと嫌な予感しかしない。
「昨日、あのお客さんともめたの?」
え?
いきなり言われ、意味が分からずポカンと口を開けた。
あのお客さんって、昨日のストーカーだよね?
もめたのかって・・・
「君がホールに出て行って、お客さんを脅していたって書き込みが本社のホームページにあってね」
「はあ?」
バカバカしい。
脅していたのはあのストーカー野郎の方。
私は間違ったことをしていない。
「どうなの?」
穏やかで、少し優柔不断なうちの店長。
40過ぎてから初めて接客業を始めた人らしく、要領がいいとは言えないけれどまじめでうるさいことをあまり言わないいいおじさんだと思っていた。
「萌夏ちゃん?」
黙ったまま返事をしない萌夏に、店長が首を傾げる。
「私は、脅してなんていません。むしろ、脅したのはあいつの」
「こら、相手はお客さんだからね。あいつなんて言うんじゃないよ」
「え、だって・・・」
そうか、店長はあの男がストーカーだって知らないんだった。
明奈ちゃんは言いたくなさそうだったし、私も黙っていたから。
「悪いけれど、今日は厨房の方に入ってくれ。今後のことは改めて話そう」
「それって、」
「どうせ耳に入るだろうから正直に言うよ。本部から君をホールスタッフから外すように言われている」
そんな・・・酷い。
***
萌夏は我慢できなかった。
まじめに一生懸命働いてきたのに、言い分も聞かずにネットの書き込みだけを信じてホールスタッフから外すなんてあんまり。
守ってもくれない店長にも腹が立つし、あわよくば辞めてくれと思っている本部にも頭にくる。
もうやっていられない。
「わかりました。バイトを辞めます」
半分は本気、もう半分は勢い。
きっと止められると、心のどこかで思っていた。しかし、
「そうか、わかった」
店長はあっさり認めた。
どうやら、相当邪魔な従業員だったらしい。
この時になって初めて気づいた。
若さゆえの短慮と言われてしまえばそれまで。
でも、ここしばらくの学校とバイトの両立に悩んだ思いと重なって、萌夏の中で何かがプツンっと切れてしまった。
「ああ、悪いけれど寮の方も今月末までに出てほしい」
追い打ちをかける声。
睨み付けるように店長を見た萌夏。
この時、いつもは淡いブルーの優しい空気に包まれていた店長の後ろに黒く淀んだ気配を感じた。
***
「ごめんね、萌夏ちゃん」
ロッカーで荷物を整理する萌夏のもとに、明奈ちゃんがやってきた。
「いいのよ、大丈夫だから」
本当は大丈夫ではない。
店長に反発し、衝動的に「辞めます」なんて言ってしまったことを後悔してさえいる。
ちょっと冷静になればわかることなのに、
「私が本当のことを話しますから」
だから辞めないでと私の手を握る明奈ちゃん。
「駄目よ。そんなことをすれば、明奈ちゃんが嫌な思いをするだけでしょ」
昨日の様子からして、明奈ちゃんはあの男のことを思い出したくもないはず。
それに、被害者とはいえ男の目的が明奈ちゃんだったとわかれば、今度は明奈ちゃんの方が仕事を失うかもしれない。
「ちょうど大学の単位がやばくてね、バイトをやめようかと思っていたところだったのよ。だから、心配しないで」
ひきつった笑顔で、精一杯強がってみた。
まったくの嘘ではない分、多少のリアリティーはあるだろう。
それでも、明奈ちゃんは納得していない顔だったけれど、萌夏に背中を押されバイトに戻っていった。
はあぁー。
一人になったロッカールームで、大きなため息。
さあ、困った。
バイトを辞めると言ったはいいけれど、当然寮も出なくてはならなくなるし、そうすると住むところもなくなってしまう。
貧乏学生の萌夏に、新しいアパートを借りるお金もあるはずなく・・・・本当に困った。
***
萌夏が寮を出るまでに与えられた時間は10日間ほど。
その間に新しい部屋を見つけなければいけないし、そのためにはまずお金が必要になる。
もちろん貯金はない。転がり込むようなあてもない。
何とかしてお金を工面し、安くてもいいから住む場所を確保するしかない。
考えて、考えて、眠れなくなるほど考え抜いた結果、萌夏は町の裏通りにある質屋の前に立った。
「ごめんね、母さん」
手にしていた小さな紙袋をギュッと握りしめる。
本当は手放したくなんてない。
写真でしか見たことのない母さんが大切にしていた宝石達。
亡くなった母さんの形見として、ずっと持っていたかった。
でも、今の萌夏にはこれ以外にお金を用意する手立てがない。
ヨシッ。
自分に気合を入れるように顔を上げ、萌夏は一歩踏み出した。
その時、
「おい」
不機嫌そうに声をかけられ、腕を引かれた。
***
ビクンと肩を震わせ、固まった萌夏。
「何をしているんだ?」
その場に現れたのは、数日前に遭遇したイケメン。
相変わらず高そうなスーツでビシッと決めて、萌夏を見ている。
「別に、」
悪いことをしているわけではない。
自分の持ち物を質に入れて、お金を工面するだけ。
知り合いでもない人に、責められるいわれはない。
「そんな顔で質屋を睨んでいたんじゃ、職質されるぞ」
フン。
嫌な奴。
そもそも、萌夏は彼に対していい感情があるわけじゃない。
むしろ、避けたい相手。
出来れば知らないふりをして通り過ぎてほしいんだけれど。
「なあ、飯行こうよ」
「はあ?」
おそらく歳はそんなに変わらないであろうイケメンを、萌夏は口を開けたまま見上げた。
「近くにうまい焼き肉屋があるんだ。一人じゃ行きにくいから、行こう」
いや、友達でもない人と焼き肉って・・・
「なあ、いいだろう?好きなだけおごるからさ」
「でも・・・」
何でそんなに必死に誘うんだろう?
本当に、一人焼き肉が嫌なだけ?
それとも何か思惑が、
グウ―。
あっ。
この絶妙なタイミングで、萌夏のおなかが鳴った。
「正直だな。行くぞ」
「・・・」
耳まで真っ赤にしてそれでも動けないでいる萌夏を、引っ張っていくイケメン。
萌夏も、なぜか抵抗する気にはならず、渋々ついていくことになった。
***
連れていかれたのは超高級な焼き肉店。
予約をしていた風でもないのに、萌夏たちは個室へと通された。
てっきり初めての店に来たものと思っていたけれど、店員たちは男性のことを知っているようだし、男性も慣れた様子で言葉を交わしている。
この人、一体何者だろう?
「よく来るの?」
どう考えてもVIP待遇を受けているとしか思えなくて、萌夏は口にした。
「この店は初めてだよ。ただ、オーナーが祖母の知人で、本店には子供のころからよく連れてこられた」
「へえー、おばあさまが」
この店の本店は都内の一頭地にある星付きの店。
私なんて入ったこともないような所。
やはりこの人ただ者じゃないわ。
「いいから、さぁ食べよう」
いつの間にかオーダーがすまされていて、次々と運ばれてくる高級なお肉たち。
見たこともないようなきれいなサシの入ったお肉を前に不安を覚えた。
どう考えても今ここにいることが場違いで、男性に何かしらの魂胆があるように思える。
「どうしたの?」
なかなか箸を出さない萌夏に、焼き上がったお肉を差し出す男性。
「いえ、あの・・・」
どこから聞けば良いのだろうと思案して、萌夏はまず1つ息を吐いた。
***
「何を考えているんですか?」
テーブルに箸を置いたまま両手を膝に乗せまっすぐに男性を見る。
何が目的なのかを聞かないことには、高級焼肉なんて怖くて食べられない。
とにかく相手の思惑を探ろう。
「単純にお腹がすいたそれだけだよ」
「嘘」
そんな言葉には騙されない。
「素直じゃないなぁ」
あきれたような顔。
「この状況で喜んでご馳走になれる方がどうかしているでしょう?」
素直とかそういう問題ではない。
彼の行動が怪しすぎるのだ。
「じゃあ聞くけれど、君はあそこで何をしようとしていたんだ?」
「え?」
「質屋の前で思い詰めた顔をして、何を考えていたんだ?」
「それは・・・」
言葉が続かず、萌夏は黙ってしまった。
「今にも泣きだしそうな顔をするほど大切なものを質に入れて、何をする気だった?」
「・・・」
「金は働けば作れるかもしれないが、手放した品は2度と帰ってこない。本当にわかっているのか?」
「・・・」
返事ができず、下を向く萌夏。
彼の言うことは正論。
でも、きれいごとだわ。
本当の苦労をしたことのない人の言葉。
「あなたは、家にお米がなかったことがありますか?水道やガスを止められたことがありますか?帰る家を失ったことが、」
そこまで言って、萌夏の声が震えた。
悔しい。
萌夏だって、好きで母さんの形見を手放すわけではない。
そうでもしなければ、住むところを失ってしまう。
「確かに、俺は住むところにも食うものにも苦労したことはない。でもな、」
一旦言葉を切って、男性が萌夏を見る。
「大切なものを守るためなら、俺はどんなプライドも捨てるぞ」
え?
萌夏は急に怖くなった。
この人は、何を知っているの?
***
「とにかく食べよう。肉が焦げてしまう」
少しだけ表情を和らげ、男性は肉を焼きだした。
萌夏は今更逃げ出すわけにもいかず、素直に従った。
「バイトを辞めて、お金がないんだろ?」
「何で」
知っているの?
「たまたまあの店に行って、あの時ストーカー野郎に絡まれていた子が教えてくれたんだ」
へえー。
「自分のせいで辞めさせたって、落ち込んでいたぞ」
「そう」
明奈ちゃんは何も悪くない。
悪いのはあのストーカーと、短慮な自分。
「それにしても馬鹿だなあ」
「は?」
萌夏だって褒められることをしたつもりはないけれど、バカだと言われる覚えもない。
「いくら間違ったことはしていないと言っても、仕事や住む所を失ったんでは意味がないだろう」
「まあ、確かに」
「それ、大切な物なんだろう?」
男性が、萌夏の隣の席に置かれていた紙袋に手を伸ばす。
なぜか、萌夏は止めなかった。
この人には何もかもを見透かされているようで、今更隠す必要がないように思えた。
「スゴッ」
紙袋の中を覗き思わず出た言葉。
そうでしょうね。
こんな立派な宝石を私が持っているとは思わないだろうから。
「盗品じゃないよな?」
「バカ」
ほんと、失礼な人ね。
***
「で、亡くなったおふくろさんの形見を質に入れて引っ越し費用にしようと?」
「まあね」
それ以外方法がなかったのよ。
生きていくためには仕方がなかった。
「何でバイトを辞めたんだよ」
え?
「自分から辞めたんだろ?おかげで住む所もなくなった」
うっ。
確かにそうだけれど。
「それで大切なものを失って、路頭に迷うことになるのに、本当にバカだな」
「そんなこと」
私にだってわかっている。
この頑固な性格のせいで、損ばかりしてきた。
でも、どうしても我慢できなかった。
私は間違ったことはしていないのに・・・
萌夏は、悔しくて唇をかんだ。
「実家には帰れないのか?」
「うん」
あそこはもう私の家じゃない。
おじいちゃんもおばあちゃんも父さんも亡くなって、今はおじさんとその家族が住む所。
私の帰る場所ではない。
「人間、妥協も我慢も駆け引きも必要だと思うぞ」
「そうね」
それができればいいのに。
「バイト、紹介しようか?」
「あなたが?」
お金持ちに違いはないんだろうけれど、20代前半に見える男性に言われても真実味がない。
それに、
「いらないわ。バイトはボチボチ探すから」
その前に住む所を確保しなければ、バイトどころではない。
「実家に帰れなくて住む所がなくて困っているなら、部屋を貸そうか?」
「えぇ?」
あまりにも予想外の言葉に、萌夏はお肉をポロンと落としてしまった。
***
いけない、もったいない。
落とした霜降り肉を慌てて拾い、パクンと口に入れる。
「バカ、落ちたものを食うな」
「いいじゃない、テーブルの上でしょ」
すぐに拾ったし、汚くないわよ。
「お前なあ」
完全にため口になってしまった男性が、呆れている。
「それより、アパートを貸してくれるの?」
萌夏にとってはその話の方が気になった。
「アパートじゃなくて、余ってる部屋を貸そうかって言ったんだよ」
部屋を貸す?
「どこの部屋を?」
「うちの」
「それは、えっと・・・あなたの家ってこと?」
「ああ」
「あなたは、実家暮らしなの?」
「いや、都内のマンションに一人暮らしだ」
「それじゃあ・・・」
萌夏の想像通りだとするなら、男性はマンションに一緒に住もうと誘っている。
「大丈夫だ。4LDKのファミリータイプだから、部屋は余っている」
「えっと、だから、」
そういう問題ではない。
「悪い話ではないだろう?うちに来れば、住む所には困らないし、おふくろさんの形見を手放すこともない」
それはそうだけれど。
さすがに「わかりました」とは言えない。
だって、怪しすぎる。
***
「はい」
一人で考えを巡らせていた萌夏に差し出された運転免許証。
「何?」
思わず尋ねると、
「こういう時って名刺を出すべきなんだろうけれど、まだ作成中でね。とりあえず、身分証明」
照れくさそうに返された。
ふーん。
目の前の免許証を手に取る。
|平石遥《ひらいしはるか》。
生年月日からすると、萌夏と同い年の23歳。
書かれている住所は東京の高級住宅地。
やっぱりお金持ちなんだ。
「私は、小川萌夏」
カバンの中をあさり、学生証を取り出す。
今年5年目になってしまった学生証。
それでも、今の萌夏には唯一の身分証明書。
「へえ、大学生なんだ」
「留年中だけど」
「で、どうする?うちに来る?」
この時、すでに答えは出ていた気がする。
ほぼ初対面で、何も知らない人だけれど、その言葉からも態度からも嘘は感じない。
ここで妥協しなければ、母さんの形見を失ってしまう。
萌夏はその思いから
「お世話になります」
遥に向かって頭を下げた。
***
「さあ、どうぞ」
遥に連れてこられたのは都内の中心部。
「すごーい」
思わず声を上げてしまうほど立派で、豪華なマンション。
玄関だけで十分暮らせそうなスペースから続く長い廊下。
その先のドアを開ければ、広いリビングが広がっていた。
こんな世界が本当にあるのね。
生活感のない真っ白なリビングも、壁一面の窓から見下ろす都会の景色も、現実味がなさ過ぎて夢のように思える。
「奥のゲストルームが空いているから使ってくれたらいい」
「はい」
とりあえず部屋を見るかと言われついてきた遥のマンションは、萌夏の予想を超えていた。
「生活に必要なものはほぼ揃っているはずだし、家事代行を頼んでいるから冷蔵庫には作り置き食材があるが、足らないものがあれば言ってくれ。用意してもらうから」
やっぱり、お手伝いさんがいるのね。
どおりで、生活感のない奇麗な部屋だと思った。
「大丈夫。自分のことは自分でできるし、料理も洗濯も掃除も嫌いじゃないの」
むしろ家事は大好き。
小さいころからおばあちゃんの手伝いをしてお料理をしていたし、掃除も洗濯も私の役目だった。
***
「フロントには俺が言っておくから、引っ越しの日が決まれば連絡をくれ」
「うん。じゃあ、週明けにでもお邪魔します」
そうと決まれば早い方がいいものね。
「そんなに急に引っ越し業者が手配できるのか?」
「いや、引っ越し屋さんには頼まないわ。荷物と言っても布団と着替えくらいなものなの。自分で運んでくるから」
「自分で?」
「そう。布団と大きな荷物は宅配で送ればいいし、身の回りのものは自分で運ぶわ」
「自分でって、電車で運ぶ気か?」
「ええ。ちゃんと人の少ない時間を選ぶから大丈夫よ」
ここはあまりにも都心過ぎて大荷物を持って移動するのが恥ずかしいけれど、駅からの距離も近いし早い時間を選べば人目にもつかないと思う。
「車を出すから都合のいい日を教えて」
「え、いいよ。自分でできるから」
そこまで迷惑をかけるわけにはいかない。
「俺の同居人が朝っぱらから大荷物を抱えて部屋を訪れるって、まるで夜逃げでもしてきたみたいじゃないか」
「そんなあ」
それはちょっと言いがかり。
「とにかく、俺が嫌なんだ。来る日が決まったら連絡をくれ」
「はいはい」
居候させてもらう立場としては文句も言えないけれど、この部屋のご主人様はちょっと暴君。
この先が思いやられるなと思いながら、萌夏は早くバイトを見つけてお金を貯めここを出ようと決心した。
***
カタカタカタ。
リビングのテーブルの上で、パソコンを叩く遥。
きっと仕事なんだろうけれど、作業のために広げられた書類でリビングのテーブルが埋まりそう。
けれど遥自身は気にする様子もなく、パソコン画面に見入っている。
萌夏だって仕事の邪魔をする気はないから、遥が仕事を始めて30分ほどたった時に「そろそろ帰りますね」と声をかけた。
しかし、「急ぎの仕事だけ片づけたら送るよ」と言われてしまい今に至る。
はじめのうちは家の中を見て回ったり、冷蔵庫に作り置きされた料理を味見したりしていたけれど、さすがに暇。
それに、少しおなかもすいてきた。
「ねえ、よかったらご飯作りましょうか?」
「え?」
初めて来たお家で図々しいかなあ。
でも、すぐに一緒に暮らすんだし、遠慮してもねえ。
「いいのか?」
神妙な表情で顔を上げた遥。
「もちろん。でも、私も食べるからね」
「ああ」
「じゃあ、適当に作るわ」
どうせ冷蔵庫の中の食材で作るわけだから、作れるものは限られる。
だから、「何が食べたい?」なんて聞かなかった。
口に合わなければそれで結構。
それに、遥に雇われた家事サービスが彼の嫌いな食材を置いているはずがないし、あるもので作ればはずれはない。
仕事に没頭する遥を横目に、萌夏はキッチンへ向かった。
***
「ご飯、できたけれど」
さっきより書類の山が大きくなったリビングに声をかけた。
仕事のきりが悪ければ、もう少し待ってもいいし。いらないと言われれば冷蔵庫にしまっておけばいい。仕事の邪魔をするつもりはない。
「ああ」
遥は手を止めて散らかった書類をかたずけだす。
どうやら食べてくれるらしいと確認して、萌夏はダイニングに料理を並べた。
「うわ、すごいね」
テーブルを見た瞬間、遥が声を上げた。
「そお?」
そんなに手の込んだものを作った覚えはない。
「いや、十分すごい」
「そんなことないでしょ。私が作ったのは鮭ときのこのホイル焼きと、揚げ出し豆腐。あとは、残った野菜でお味噌汁を作っただけ。小鉢やサラダはみんな冷蔵庫の作り置きだから」
「でも、ありがとう。いただくよ」
「うん」
遥の口からありがとうって言葉が出たことが、萌夏は不思議だった。
***
「いただきます」
きちんと手を合わせ口にした萌夏を、遥は不思議そうに見た。
「ごめんなさい。実家がお寺だったものだから食事のマナーに厳しくて、友達と食べていても時々笑われるの」
萌夏の父はお寺の住職だった。
だからってわけではないけれど、行儀とかマナーにはうるさかった。
母は萌夏が生まれてすぐになくなったため祖父母に育てられ、食べ物も和食が中心。
だからその反動で、パン屋でバイトがしたくなったのかもしれない。
「いや、いいと思うよ。俺の親父も普段は優しいくせに食べ物を粗末にすると怒る人だし」
「へえー」
遥のお父さんってどんな人だろう?
やっぱりかっこいいのかなあ。
親子だものね、似てるわよね。
「じゃあ、いただこう」
「はい」
遥は文句も言わず、すべての料理を食べてくれた。
「美味しかったよ、ご馳走様」
「お粗末様でした」
よかった、どうやら好き嫌いはないみたい。
食べ方もきれいだし、育ちの良さが垣間見える。
「これだけ料理ができるなら、家事サービスの回数を減らした方がいいかなあ?女性って、他人が家に入るのが嫌だろ?」
そもそもここは人の家なわけで、文句を言う筋合いではない。
でも、
「あなたが嫌でなかったら、私がいる間は家事をしますよ」
家賃も払わずに住まわせてもらうことに抵抗があったし、家事をさせてもらう方が気が楽になる。
「いいのか?」
「もちろん」
「じゃあ頼むよ」
どうやら交渉成立。
こうして萌夏と遥の共同生活が始まることになった。