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小川萌夏。
同い年の23歳で、大学生のフリーター。
「何でこんなことになったんだか・・・」
ガックリと肩を落とし、遥はソファーに倒れこんだ。
社会人になったのを機に一人暮らしを始めたマンション。
実家からの距離よりも会社に近い利便性でここを選んだ。
母さんもばあさんも家を出て暮らすことに賛成ではなかったが、強引に押し切った。
「一度くらい一人暮らしがしてみたいんだ」と言えば、強く反対されることもない。2人とも遥には甘いんだ。
住むのはもちろんうちの管理している物件で、父さんが所有しているマンションだから家賃なんて払ってはいない。
これからここで一人暮らしを満喫するはずだったのに、何で同居なんて提案したんだろう。
普段なら、感情で言葉を口にするタイプではない。
会社の経営者として、上に立つ人間として、本心を覆い隠すすべを身に着けてきたつもりだった。
でも、あいつには通用しなかった。
自分が困っても仲間のために立ち向かっていく無鉄砲さと、おふくろさんの形見を質に入れなくてはならなくなっても意地を張り続ける頑固さに呆れた。
落ちた肉を平気で食べるくせに、ありあわせの材料手際よくで料理する姿に驚かされた。
何よりも、高級焼き肉をおごられても、左ハンドルの車に乗せられても、都心の高層マンションの最上階にやってきても、遥のことを探ろうとしないことが意外だった
普通なら、何者かって聞くだろうし、仕事は何かって聞くはずだろう。
でも、彼女からはそんな気配が微塵もない。
「小川萌夏かぁ」
不思議な子だ。
***
春、4月。
大学を卒業しアメリカへ留学させたい母さんと自分のもとで育てたい父さんの思惑の中、遥は系列会社の社員として社会人生活をスタートさせた。
遥の実家は日本を代表する企業の一つ、平石財閥の創業者一族。
父さんは総帥としてメイン企業であるHIRAISIの社長をはじめいくつもの会社の経営に携わっている。
その家の長男として育った遙は、子会社の一つ平石建設の営業本部次長。
いくら大学生時代から外部役員として経営に関わってきたとはいえ、新入社員のくせにとんでもなくエラそうな肩書がついている。
そのうえ、来年春の専務就任を見越して秘書までつけられた。
「本当に視察に行くんですか?」
不満気に口を出してきた秘書兼相棒の|坂田雪丸《さかたゆきまる》。
遥より4つ年上の27歳。
「ああ、自分の目で見たいんだ」
「今更視察をしたところで方針が変わるとは思えませんし、明日からは沖縄に一週間の出張ですよね。仕事は山積みのはずですが?」
せめて秘書は自分で選ぶからと友人である雪丸にしたのはいいが、友人であるがゆえに遠慮がない。
「急ぎの仕事は今夜中に済ませるから、行かせてくれ。どうしても見ておきたいんだ」
「わかりました」
本当は納得なんてしていないくせに、了解したと言ってくれる雪丸。
この後雪丸には別の会議が入っているのを知っていて、遥は一人で会社を出た。
***
忙しい時間を縫って訪れたベーカリー。
ここはHIRAISIが手掛けるカフェ併設のベーカリーで、5年ほど前にオープンして以来業績を上げ都内に20店舗ほど展開するうちの一軒。
来年には郊外にも出店しようということで、今建設計画が進んでいる。
「さすがに人が多いな」
平日の昼間だというのに、カフェの席はほぼ埋まっている。
基本はベーカリーだから、当然パンの種類も多いし、ドリンクも比較的低価格でメニューも豊富だ。
サクッ。
うん、旨い。
クロワッサンとブレンドコーヒーを注文し口にしてみると、パンは焼きたてでコーヒーも丁寧に入れられたのがわかる。
この味なら、人気が出ても当然だろう。
しかし郊外に進出となれば、客層も変わってくる。
店の配置も什器も今までと同じではいけない。
家族連れや、親子連れを視野に設計を見直した方がよさそうだな。
そうなれば当然メニューだって
「だから、俺はコーヒーを頼んだんだよ」
携帯を取り出し雪丸にメールを打とうとしていた遥の耳に飛び込んできた男性の大声。
「しかし、ご注文はレモンティーと」
10代に見える店員は不満げに言い返している。
「いや、違うね。俺はコーヒーを頼んだんだ」
それでも引こうとはしない客。
これだけの客が入る店なら多少のトラブルがあるのは当然かもしれない。
そんな思いで遥は見ていた。
***
ややあって表れた同僚の女性と、店長らしき男性。
店長はひたすら謝っていて、女性が店員を連れて店の奥に入っていった。
これで、新しいコーヒーを出せば一件落着。遥はそう思って成り行きを見ることにした。
こういうトラブル時の対応こそが、店にとっての真価を問われる。
店長はずっと低姿勢だったし、新しいコーヒーが出てくるのも早かった。
これで解決かな。と思っていると、
「申し訳ありません、彼女体調が悪くて」
対応をした店員ではなく後から現れた女性が客の前に立った。
何か変だな、遥も違和感を感じた。
「いいから、明奈ちゃんを呼んでよ。一言謝ってくれればそれで済ますから」
え?
遥は固まった。
この店の名札は全員苗字しか書いていない。
ということは?
「お客さんは、なぜ彼女の名前を知っているんですか?」
「え?」
「だって、おかしいじゃないですか。彼女をご存じだったんですか?」
どうやら女性も気が付いたらしい。
***
その後、客と女性は言い争っていた。
どうやら客の男は店員の素性を知っていて因縁をつけたらしい。
ひょっとすると、実際には間違った注文をわざとしたのかもしれない。
でも、今それを言ったところで何の解決にもならない。
「いいから、明奈ちゃんを連れてこい」
しびれを切らした男が立ち上がり、落としたカップの音で店内の視線が一斉に集まる。
最悪だ。
ここまできたら客も引けないだろうし、女性の顔も心なしか青ざめている。
「何しているんだ、早くしろっ」
さらに大きくなる男の声。
さあどう決着をつける気だろうと、遥は心配になった。
こうなったら、あの若い店員が出てくるしかないだろうな。
いくら理不尽でも相手は客だし、完全に怒ってしまっている。
しかし、
女性は一つ肩で息をつくと男性に向かって一歩踏み出した。
え、マジか。
こいつは客を挑発して事態を大事にしようとしている。
ったく、
「あーあ、コーヒーがかかっちゃったよ」
わざとらしく靴を拭きながら、遥は席を立った。
「ほんと人騒がせだなあ。せっかく一息つこうと思ってきたのに。クリーニング代は店に請求するの?それともあなた?」
唖然とする2人に追い打ちをかけてみる。
こんなところでトラブルに首を突っ込むつもりはなかったが、仕方ない。
それに、さっきから気になっていた男の襟もとについたバッチ。
これはHIRAISIのもの。
信じられないことだが、この男はHIRAISIの社員ってことだ。
「僕、平石遥と言います。あなたうちの社員ですよね?」
耳元でささやくと男の顔色が変わった。
どうやら名前くらいは知っていたらしい。
「今は社外役員だけど、父に調べてもらえばあなたの素性もすぐにわかりますよ」
遥の言葉で、男性の動きが止まった。
それじゃあと遥は女性の方を見て、
「この店は防犯カメラをつけているんでしょ?誤解があるなら言い合いなんてせずに画像の確認をするほうがいいんじゃないの?」
わざとらしく忠告してみる。
その途端、
「も、もういい」
男性客は逃げるように店を出て行った。
***
「ありがとうございました」
割れたカップをかたずけてから、女性が遥に頭を下げた。
店内もすっかり落ち着きを取り戻し、すべてが丸く収まったように見える。
でも、
「君、ホールは向かないと思うからキッチンスタッフのほうがいいんじゃないの?」
一言言わなければ気が済まなかった。
どんな事情があったのかはわからないが、こんなに短気な人間では危なっかしくてしょうがない。
「何を考えてのことかは知らないけれど、怒っている客をさらに怒らせても事態は悪化するだけだ。考えればわかることだろう」
つい強い言葉になった。
その後、女性は何か言いたそうにしていたが、遥はすぐに店を出た。
その足で平石商事に向かい先ほど見た男の素性を確認。
直属の上司を通じて勤務状況などの報告を依頼した。
この時の遥は、軽い気持ちだった。
まさか男がストーカーで、女性を逆恨みして陰湿な書き込みをするとは思ってもいなかった。
***
偶然なのか運命なのか、その日の夜もう一度女性と再会した。
それは、翌日からの出張に備えギリギリまで仕事を片付けようと近くのスーパーで夕飯を調達し会社へ戻ろうとした時。
「あ」
夜遅い時間のせいかスーパーに残された数少ない惣菜を手にした瞬間、女性と目があった。
「最後の一つだったみたいだけど?」
意地悪く言う遥に
「あなたが先に取ったんですから、どうぞ。私はそんなに食べたかったわけではありませんし」
せっかく譲ろうかと思ったのにいらないと強がる女性。
「かわいくないなあ。素直に食べたいって言えばいいのに」
珍しくかる口が出たものの、それっきり。
翌日から1週間の沖縄出張の間は彼女のことを思い出すこともなかった。
***
1週間後。
何とか沖縄での商談を終えた遥は勤務先である平石建設に出社した。
本当は2日ほど休みを取るはずだったが、仕事の進捗が気になって出てきてしまった。
早速、パソコンを開くとたまったメールの中にHIRAISIからのメールがあった。
ああ、きっとあの男のことだな。
調査報告を頼んでいたから。
しかし、遥は差出人を見て驚いた。
そこにあった名前は『統括本部長、|三崎史也《みさきふみや》』
「何で?」
思わず口を出た。
三崎さんは父さんの腹心で、HIRAISIを影で仕切るボス。
もともと父さんとは大学時代からの友人で、長い間秘書として父さんについていた人だ。
頭がキレて、仕事ができて、優秀なことは間違いないが、無口で無愛想で、自分にも人にも厳しい人。
正直、遥はあまり得意ではない。
『お疲れ様です。
お尋ねの社員については、昨日付で退社いたしました』
たった2行で終わったメール。
メールの日付からすると、カフェでもめた2日後に退社したらしい。
何かある。
そう感じた遥は、三崎さんではなく人事部長に連絡を取った。
***
「ですから、私からは何も申し上げられないのです」
困ったように言葉を濁す人事部長。
「どうしてですか?僕はただ退社の理由を聞いているだけです」
「ですから・・・」
どうやら三崎さんが口止めをしているらしい。
「調べればわかることです。言える範囲でいいので教えてください」
それでもだめなら三崎さんに直接聞くしかない。
「・・・あの男には以前からハラスメントの訴えがあって、調査はしていたんです」
しつこく聞く遥に、人事部長はあきらめたように話し始めた。
「ハラスメントですか?」
「ええ。セクハラだったりパワハラだったり色々です。そんな矢先に遥さんからの連絡をもらい、思い切って社内メールの履歴を調べました」
「何か出たんですか?」
「色々出てきました。今は告訴するかどうかを上層部で審議しています」
へー。
やっぱり悪い奴だったか。
待てよ、ってことは、
急に不安になった遥は、ベーカリーへ向かった。
***
「いらっしゃいませ」
注文したドリンクを持って現れたのはこの間の店員。
やはりまだ若そうだ。
「君は確か、この前の」
「え?」
突然声をかけられ警戒する店員。
「先週、男に絡まれていただろう?」
「お客さん、見ていたんですか?」
「うん。たまたま店にいてね」
「じゃあ言ってください。萌夏さんは悪くないって、言ってください」
悔しそうに唇をかむ。
「どうした?何があったの?」
「あの男はストーカーで、萌夏さんは私を助けただけなのに。萌夏さんが男を脅していたって書き込みがお店のホームページにあって、それで萌夏さんが」
店員の表情はどんどん崩れていく。
「それで、彼女はどうなったの?」
「お店を辞めたんです」
何で、彼女が。
悪いのは彼女じゃないのに。
調べればわかることじゃないか。
遥は無性に腹が立った。
「わかった、お店にはちゃんと言っておくから」
そう言うのが精一杯。
泣き出した店員を何とかなだめ、遥は店を出た。
***
会社に戻るのももどかしく、車の中から雪丸に連絡を取った。
「すまないが、急ぎで調べごとを頼まれてくれ」
突然の申し出に驚いた様子の雪丸。
それでも1時間ほどで彼女の素性と住所、店を辞めた経緯を調べてくれた。
「彼女、何者なんだ?」
珍しく女性についての調査を依頼してきた遥に、雪丸は不思議そうに聞いてくる。
「ちょっとした知り合いだ」
「ふーん」
本当にそれだけ。
偶然かかわってしまったことと、事情も知らず彼女を責めるようなことを言ってしまった後悔の思いから気になっただけ。
「今日と明日は休みだからゆっくりすればいいが、変なことに首を突っ込まないでくれよ」
これは秘書としてではなく、友人としての言葉だろう。
「ああ、気を付ける」
遥だって、トラブルは避けたい。
そのまま車を走らせ彼女の住む会社の寮に向かうと、ちょうど外出する彼女の姿を見つけた。
この時の遥は何もするつもりはなかった。
まさか彼女が仕事ばかりか住む所も失おうとしているなんて知らなかったし、自分が彼女にマンションの部屋を貸すなんて言い出すとは思ってもいなかった。
ただ、天真爛漫というか無防備というかよく知りもしない男から食事に誘われついてきてしまう彼女が心配になったし、路頭に迷う寸前なのにそれでも強がっている姿が痛々しくて黙っていられなかった。