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弟たちの説得
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次の日。
有一郎も無一郎も昨晩大泣きしたせいで頭痛が酷く、いつもなら起きている時間になってもまだベッドの中にいた。
「じゃあ、行ってくるわね」
『行ってらっしゃい。気をつけてね。はい、お弁当』
「ありがとう、苺歌。…ところで有一郎と無一郎はまだ寝てるのかな?」
「今日が土曜日だからって夜更かししたんじゃないかしら?」
『まあ、たまにはいいんじゃない?2人が起きてきたら一緒におうちのことするね』
「お願いね」
「じゃ、行ってくる」
そんなやり取りが階下から聞こえてくる。
とりあえず起きて朝食を食べるか…と、重い身体を起こす。
ガチャ
有一郎と同じタイミングで、隣の部屋から無一郎が出てきた。
「…おはよう、兄さん」
「…おはよう」
2人とも同じような顔を同じように浮腫ませていた。
階段を下りたところで姉と鉢合わせする。
『あ、2人ともおはよう』
「おはよ」
「おはよう」
苺歌はすぐに2人の顔の違和感に気付いたようだ。
『…どうしたの?2人して瞼が腫れてる気がするんだけど』
「うん、ちょっとね」
「うん」
揃って言葉を濁す2人に、苺歌はそれ以上聞かず話題を変える。
『いま起こしに行こうと思ってたんだよ。朝ごはん、一緒に食べよう』
「「うん」 」
顔を洗ってダイニングに行く。
こんがり焼いたトーストに、レタスと目玉焼きとミニトマト。それからホットミルクがテーブルに並んでいた。
『ゆうくん、むいくん。具合でも悪いの?』
元気のない2人に苺歌がたずねる。
「…ちょっと頭が痛くて」
「俺も……」
『あら。大丈夫?熱は?』
「熱はないよ」
「うん、僕も」
弟たちの返答を聞いて、とりあえずは安心する苺歌。
『食べられるだけでいいからごはん食べてね。きつかったら休んでていいから』
「うん」
「ありがとうお姉ちゃん」
食欲がないわけではないので出された朝食を残さず食べた2人。
食器を下げて洗おうとすると、苺歌がそれを止めた。
『私が洗うからいいよ。ゆっくりしてて』
「でも……」
『いいから』
「…うん……」
お言葉に甘えて2人は階段を登って自室に戻った。
またベッドに潜る。まだ自分の体温が残っていて温かい。
……お姉ちゃん…この家を出て行くんだ……。
いつも優しい姉の笑顔が脳裏に浮かぶ。大好きな姉と過ごした思い出も。
それと同時に視界が歪み、熱い雫が目尻から零れ落ちて耳の淵に流れていった。
ぐすっ……ひっく……
静かな部屋に、自分の啜り泣く声が虚しく溶けていく。
ぼんやりとした意識の中で12時の防災無線の音楽が聞こえ、有一郎と無一郎は目を覚ました。
いつの間にか寝ていたようだ。
それぞれの部屋から出てきた2人は、また階下に下りる。
『あ、ちょうど呼びに行こうかと思ってた。2人とも、頭痛いのはどう?少しはマシになった?』
「うん、大分いいよ」
「僕も」
『そっか。よかった。じゃ、お昼にしよう』
朝よりも幾らか顔色のいい弟たちを見て、苺歌が安心したように微笑む。
昼食は誰かからお歳暮でもらった高級ハムと、炒り卵、刻んだ葱と人参を混ぜた炒飯風。
それと昨日の夕食の残りの中華スープにワンタンを加えたもの。
香ばしい匂いが2人の鼻腔をくすぐった。
姉の作る料理はいつだって美味しい。見た目も綺麗で、栄養たっぷりだ。前日の残り物も姉の手にかかればまた別のご馳走になる。苦手な食材だって克服できたのは姉の料理のおかげだ。
そんな姉の料理を、これからはもう食べられないかもしれない。
自分たちも姉を手伝って少しずつ料理を覚えてはきたものの、彼女の味を再現するのはまだまだ先だと思う。
寂しい……。
じわりと涙が浮かぶ。でも食事の途中で泣いては姉をびっくりさせてしまう。
2人は涙が零れないように目を見開いてみたり高速で瞬きをしてその場をやり過ごした。
ゆっくりしてていい、と言われ、また2人は食器を洗わせてもらえなかった。
姉の食器洗いが終わるまで、リビングのソファに座って過ごす。
テーブルの上には、2人がクリスマスにプレゼントしたハンドクリームがちょこんと置かれていた。
もう大分使ってくれたのだろう。以前有一郎が塗ってもらった金木犀の香りのハンドクリームように、チューブの真ん中が平たくなっていた。
『あ、2人ともこっちにいたのね。テレビも点けずにどうしたの?』
言いながら、苺歌がハンドクリームを手に塗る。苺ジャムのような甘酸っぱい香りがその場に拡がる。
「……お姉ちゃん…家、出るの…?」
『えっ?』
「…ゆうべ聞いちゃって……。お姉ちゃん、この家を出て行っちゃうの?」
改めて口に出すと、鼻がツンと痛くなって涙が勢いよく込み上げてきた。
『あ、聞いてたのね。隠してたわけでもないけど、そうなんだ。まだ確定ではないんだけどね』
「「…っ!」」
やっぱり聞き間違いなんかじゃなかった。
お姉ちゃん、もうすぐこの家を出て行っちゃうんだ……!
堪えきれずに2人の目から涙が溢れ出した。
『えっ!?ちょっと…2人ともどうしたの!?』
「…ぅっ…お姉ちゃん……いなくなっちゃ嫌だ……っ」
「ずっとここにいてよお……!寂しいよぉ…っ」
ぼろぼろと涙が頬を伝って流れていく。
『……あのね、私、専門学校に行きたくて。昨夜はその話をしてたの。ここからだと新幹線で2時間の距離にある学校だからひとり暮らししようと思って。通えない距離でもないけど、通学の往復4時間を勉強する時間にあてたくて。…もちろん入学試験に合格すれば、なんだけどね 』
大好きな姉はずっとこの家にいるのだと勝手に思っていた有一郎と無一郎。
いつかは結婚してお嫁に行くかもしれないけれど、まだしばらくはこの家で一緒に暮らしていけると思っていたのに。
こんなに急に離ればなれになるかもしれないなんて。
『保育士はこの前試験を受けて合格したんだ。専門学校では調理師と栄養士の資格を取るつもり。…将来、私がいた児童養護施設で働きたくてね』
「うぅっ……やだぁ…!」
「お姉ちゃん…っ…一緒にいてよお……!」
顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる2人。
『こう思えるのは時透家に来て、お父さんやお母さんや、ゆうくんやむいくんと家族になって毎日が幸せだからなんだよ。いま施設にいる子どもたちにも、“家族”のあったかさを経験させてあげたいの。時透家でもらったたくさんの愛情を同じだけ、傷付いた子どもたちにも掛けてあげたいの』
苺歌が2人を抱き締める。
ダムが決壊したかのように、2人の目から更に涙が溢れて止まらなくなった。
「うわああああぁぁ………!!」
「うええええぇぇぇぇん……!!」
もう抑えることもできず、声をあげて泣きながら姉の華奢な身体にしがみつく。
『もし試験に合格してひとり暮らしすることになっても、専門学校を卒業したらこっちで就職するつもりでいるから。ずっと会えないわけじゃないんだよ。それに、お盆とかお正月とか、長期休暇には泊まりがけで帰ってくるし、ちょこちょこ会えるから大丈夫よ』
相変わらず泣きじゃくる2人の背中を両手で軽くさする。
『お父さんとお母さんが帰ってきたら、今夜2人にも話すつもりでいたの。隠してたわけじゃないのよ。でも不安にさせちゃったんだね。ごめんね』
「ううっ…ひっく…」
「…ふ…うぅ…」
苺歌が腕を伸ばし、テーブルの上にあったティッシュを箱ごと引き寄せて、数枚取って2人の涙を拭う。ついでに鼻水も。
『…忘れないでいてほしいんだけど、私はこのおうちが嫌だから出て行くわけじゃないんだからね?できればずっといたいと思ってるの。私はみんなが思ってる以上に、時透家が大好きなんだよ』
にっこりと微笑む苺歌。
『お父さんとお母さんは賛成してくれたの。ゆうくんとむいくんにも、私の背中を押してほしいな 』
まだ止まらない涙を拭いながら、2人は姉の顔を見る。
無理に作っているわけではない、心からの笑顔だと分かる。
「…っ…うん…応援する……」
「俺も…っ…寂しいけど、お姉ちゃんのいちばんの味方でいたいから……」
『ありがとう。嬉しいわ』
やっとの思いで言葉を紡いだ2人。
弟たちの返事を聞いて、苺歌は再び2人をぎゅっと抱き締めた。
しばらくして、ようやく涙が止まった。2人とも土偶のように瞼がパンパンに腫れていて、それをお互いに見て可笑しくて笑ってしまった。
苺歌が保冷剤を薄手のタオルに包んで2人に手渡す。首筋を上から下にさすりながら冷やせば腫れが早く引くとのことだ。
言われた通りにする2人に、苺歌がタブレット端末を持ってきて話し掛ける。
『ひとり暮らししようと思ってるおうちの写真見る?』
「…うん!」
「僕も見たい」
タブレットをインターネットに繋ぎ、物件探しのサイトから苺歌が目星をつけた家を見せてもらう。
「わあ…綺麗だね…!」
「すごい!」
『よさそうでしょ?鍵はオートロックだしインターホンは相手の顔が見えるし。動画でお部屋の中が見られるから内覧したような気分になるよね』
楽しそうに話す姉の声が明るく弾んでいる。
『…さて、そろそろおやつでも作ろうかな。2人とも一緒に作る?』
「「うん!」」
自室にエプロンを取りに行き、姉と一緒にキッチンに立つ。
お姉ちゃんと過ごす日常を、今まで以上に大事にしよう。
たくさん思い出を作るんだ。特別な日でも、そうでない些細な日常でも。
家を出て行くのは寂しいけど、精一杯応援してあげなくちゃ、お姉ちゃんの夢を。
そう強く思う弟たちだった。
つづく