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【side宗親】
「らかりゃ宗親しゃんと飲むのは嫌いなんれすよ……」
ラグの上の春凪が、僕の座るソファーに突っ伏してゴニョゴニョとつぶやいた。
「私より先に飲んでらしたはじゅなのにケロッとしちゃってぇ〜」
伏せていた顔をほんの少し傾けると、下から僕を睨みつけてくる。
ぷぅっと頬を膨らませているのが、何となく頬ぶくろの膨らんだハムスターみたいに見えて、僕は思わず笑ってしまった。
「それを見越して水割りでアルコール濃度を下げているのかな?と思ってたんですが……僕の思い過ごしでしたか?」
言えば、「しょのはずらったんれすよぅ」と小さく吐息を落とす。
――まぁ、途中から何かを吹っ切りたいみたいにロックに切り替えたのだから、こうなったのもある意味必然だ思いますけどね?
そう思ったけれど、言わずにおいた。
僕との会話の、何が彼女をこんな風にしたんだろう?と考えてみても、キッカケがよく分からなかったからだ。
僕は今回、春凪の手に口付けながら、らしくもなく割と本音を彼女にぶつけたつもりだ。
だけど、もしかしたらそれこそが、春凪にとっては飲まずにはいられなくなるくらい迷惑なことだったのかも?
遅ればせながらそう思い至ってハッとする。
考えてみれば、さっきだって拗ねている様子の春凪があんまりにも可愛くて……。
オマケにふと見下ろした彼女のパジャマの胸元がやけに開いていたりしたものだから。
不覚にも、それに誘われるように思わず春凪を抱き寄せようとして、サラリとかわされてしまったじゃないか。
あれだって、結構な拒絶の意思表示でしたよね?
――あー、これ。良くないな。マイナス思考のドツボにハマりそうだ。
なのに――。今の春凪はあの時よりさらに無防備で愛くるしいとか……何の拷問でしょうね?
身体をひねるようにしてソファーに突っ伏したりしているものだから、ゆるふわウェーブの髪の毛が流れて華奢な首筋が丸見えなんですけど。
――今ならほんのちょっぴり上気して見える、ぷにぷに頬っぺに触れても怒られたりしないだろうか?
性懲りも無くそんなことを思わずにはいられない程度には、今の春凪からは誘いかけるようなオーラが出ている。
***
「春凪、そんな所で眠ったりしたら風邪をひきますよ?」
言って、トロリとした目の春凪の頬に恐る恐る触れてみる。
――と、
「宗親しゃんの手、大きくて男らしくてカッコいいれしゅね」
ふにゃんと微笑まれて、伸ばした手を小さな手でギュッと押さえられてしまった。
「大好きれす」
スリスリと手に頬ずりされてそんなことを言われたら、手のことを言われていると分かっていても、もしや僕自身のことを好きになってくれたのかな?と勘違いしたくなる。
「春凪?」
――マズイ。可愛すぎて困るんですけど。
だなんて、僕がポーカーフェイスのまま考えているとか、この幸せそうな顔をした女の子は露ほども思っていないんでしょうね。
頬に当てた僕の手を握ったまま、スースーと寝息を立て始めた彼女に、僕は小さく吐息を落とした。
「――起きないと……襲いますよ?」
低めた声で春凪の耳に唇を寄せるようにしてわざとそうつぶやいてみたけれど、「耳元でゴチャゴチャうるしゃーい!」とムニャムニャ声で一蹴されてしまった。
さすがに意識のない女の子をどうこうしようと言う気にはなれなくて、僕は小さく吐息を落とす。
――そう言うところも含めて大好きですよ、春凪。
心の中でこぼした本音を、さっきみたいに春凪の耳元でささやいたなら、彼女はどんな反応をするだろう?
同じように「うるさーい!」と切り捨てられてしまうかな?
***
「春凪、寝入ってしまう前に歯磨きだけしてしまいましょうか」
意識のない彼女のことならば、僕は目一杯甘やかしてあげることが出来る。
ラグの上に横座りで、ソファーにもたれ掛かるようにして眠る春凪をそっと横抱きに抱き上げると、僕は彼女を洗面所に連れて行った。
「座れますか?」
行儀はよろしくないけれど、緊急事態だからまぁ構わないか。
春凪を洗面台横のスペースに座らせると、壁に寄り掛からせるようにしてそっと手を離す。
そのまま彼女の歯ブラシに歯磨き粉をつけて「春凪、あーん」と言ったら、素直に口を開けてくれた。
寝惚けていてるときの方が、春凪は扱いやすい気がする。
そんなことを思いながら春凪の小さな口の中を傷つけないよう気を付けて、丁寧に歯磨きしてあげて。
妹の夏凪が幼い頃にも、忙しい両親に代わってよく歯磨きしてやったっけ、などと懐かしく思い出す。
コップに水を汲んで「口、すすげますか?」と眼前に差し出したら、寝ぼけ眼でそこはちゃんと自分で済ませてくれた。
ただ、高いところから洗面台のシンクに屈み込むのはしんどかったみたいで、危うく春凪が頭から流し台にダイビングしてしまいそうになって、支えるのが大変だった。
何だかんだあったけれど、春凪は歯磨きも済ませたし、パジャマにも着替えている。
このままベッドに運んでも平気かな?
そう思って再度春凪の正面に立って抱き上げようとしたら、「今日の宗親しゃんは保育士しゃんみたいに優しいれしゅね。いちゅもは腹黒ドSなのに」とヘラヘラ笑いながら自分からギュッと抱きついてくれる。
「保育士って……」
――そこはせめて王子様みたいに、とか言ってくれませんかね?
などと思いつつ。
――ちょっ、胸、めちゃくちゃ顔に当たってるんですけど……これは新手の忍耐強化訓練か何かですか?
グッと理性を総動員してそんな春凪をしっかりと抱き上げて寝室に運ぶと、ベッドから落っこちないよう割と真ん中のあたりに彼女の身体を横たえた。
いつもこのキングサイズのベッドで一緒に寝起きはしているけれど、入籍までは……と我慢している僕と、そんな僕から思いっきり距離をあけるようにベッドの端っこでこちらに背中を向けて眠るキミ。
――今日くらいは……そんなキミを抱きしめて眠っても構わないだろうか?
そう思って春凪の寝顔を見下ろしていたら、
「宗親しゃ、次はシェーブルチージュが食べたいれす」
と寝言で次のチーズのリクエストを出してくるとか。
今日羊乳で出来たロックフォールを一緒に食べたから、山羊乳のシェーブルチーズも食べたいと思ったのかな?
大丈夫。
キミがそう言うだろうと見越して、ちゃんと冷蔵庫のストックの中には、そのチーズも確保してありますからね。
バーを営む友人からの勧めだと、今回のチーズ〝イエトスト〟はどこかキャラメルを彷彿とさせられる味で、コーヒーに合うらしい。
酒を飲ませて何ぼの商売だろうに、そういうのを勧めてくれるのが何だか意外で。
けど……まぁ、それもあいつらしいか。
今度また、キミがぶぅっと頬を膨らませた時にでも、ティータイムのご機嫌伺いとして出そうかな?
そんなことを思いながら、僕は春凪の唇にそっと触れるだけの軽いキスを落とした。
すぐにでも春凪と一緒に眠りたいところだけど、リビングの片付けをして、風呂にも入らないと。
スーツ姿のまま飲んでいたことを、今日ほど悔やんだことはない――。
***
「えっ!? なに……。待って。うそ……、え?」
翌日早朝――。
僕の腕の中で可愛らしい悲鳴と、戸惑いに揺れる声が交錯して、抱きしめたままの小柄な身体がキューッと小さく縮こまったのが分かった。
恐る恐る身じろいで、間近にいる僕の様子を窺っているのが、目を開けなくても面白いぐらい伝わってくる。
僕はそんな彼女を腕に抱き締めたまま、寝たふりを決め込んだ。
***
そのままの状態で、僕は昨夜のことに思いを馳せる――。
風呂上がりの身体に部屋着を身に付けた僕は、リビングの片付けを済ませた後、すっかり寝入っている春凪のすぐ横にそっと身体を滑り込ませた。
風邪をひかせないようにという配慮のつもりで掛けた肌掛け布団が良くなかったのか。
春凪は布団の中で薄らと寝汗をかいていた。
額に張り付く前髪をそっと払いのけると、春凪が「んっ」と小さく喘いで寝返りを打つ。
その声の色っぽさに不意打ちをくらって、僕は柄にもなくドキッとさせられて。
そのまま春凪のすぐそばに寄り添って息を殺していたら、冷たいところを探すみたいに、湯冷めしてスッカリ冷えてしまった僕の身体に春凪がモソモソと手を伸ばしてきた。
僕は、そんな春凪をこれ幸いと腕の中にしっかりと閉じ込める。
当初の予定では、こちらに背中を向けて眠っている春凪を、背後から包み込むように抱き締めて眠るつもりだった。
なのに、まさか春凪の方から向きを変えて僕に抱きついてきてくれるだなんて。――何て嬉しい誤算だろう。
添い寝が出来ても、彼女の後頭部くらいしか眺められないかな、とか思っていた薄暗がりの中。
ベッドサイドに灯した間接照明が照らす仄暗さに慣れてきた目が、腕の中の春凪の寝顔をはっきりと映し出した。
くっきりとした二重まぶたに、長くて密度の濃いまつ毛。
今は閉じられていて見えないけれど、春凪が目を開けると、そこにほんのちょっぴりブラウンがかった黒目がちの瞳が、ウルルンと収まっていることを、僕は知っている。
「……ホント可愛いな」
思わずうっとりと吐息を漏らすように本音を声に出してしまって、本人に聞かれやしなかったかとやきもきした僕だったけれど、幸い春凪はまだ夢の中にいるみたいでホッと胸を撫で下ろす。
これ幸いと、春凪の幸せそうな寝顔をじっと見つめ続けていたら、抑えきれない愛しさがふつふつと込み上げてきた。
僕は腕の中の春凪を起こさないよう細心の注意を払いながら、彼女の額にそっと口付けを落とす。
さっき、額に張り付いた春凪の髪をかき上げておいたのは正解だった。
唇を春凪の額に軽く押し当てたままそっと息を吸い込んだら、シャンプーの香りに混ざって春凪自身の甘い香りが僕を包み込む。
一緒に住んではいるけれど、まだ恋人としても婚約者としてもぎこちない僕達だ。
春凪を縛る「結婚」の2文字は、きっと彼女の中では「契約」とか「政略」といった文言と、切っても切り離せないんだろう。
春凪の言動の端々にそういう線引きを感じさせられて切ないのだ、と正直に話したら、春凪は驚くかな? それとも「バカなこと言わないで下さい」って僕を睨みつけてくるだろうか?
最初はその制約のお陰で上手く春凪を手中に絡め取ったつもりでいた僕だったけれど、この頃は普通に彼女を口説かなかったことを悔やみたくなる時がある。
今更後悔しても仕方ないのは分かっているけれど、もう少しやり様があったんじゃないかとか思ったりして。
春凪は僕のことを相当な策士だと評しているようだけど、実際の僕は結構なところ、春凪に関してだけはしくじってばかりなんだよ。
こんなに春凪のことが愛しくて堪らないくせに、自分から好きだなんて言える気は全くしないし。
きっとね、駆け引きなんて度外視して素直に「好きだ」と言える男の方が、色恋沙汰においては強いと思うんだ。
それは分かっているんだ。分かってはいるんだけどね。
僕はそれでも春凪の方から僕のことを好きだと言ってくれたらって甘えてしまう情けない男なんだよ。
僕の方が先に春凪のことを好きになっただなんてバレるのはどう考えてもカッコ悪いし、そのために手段を選ばなかったと知られるのは絶対に避けたいじゃないですか。
ねぇ、春凪。お願いだから、一刻も早く僕のことを好きになって?
とはいえ、「政略結婚」という枠をなかなか外してくれない春凪が手強いのは紛れもない事実。
現状では、春凪の意識がある時に、こんな風に彼女を近くに感じることはまだまだ当分無理だと思う――。
だからね、今夜ぐらいは。
弱みを握っているということを振りかざさずに、僕はキミにただただ寄り添いたいんだ――。
***
腕の中の春凪が「んっ」小さく吐息を落として身じろいで、僕は幼い時分の妹をあやしていた要領で、ぽんぽんと背中を優しく叩いて彼女を眠りの縁に再度誘った。
と、規則正しく寝息をたて始めた春凪が、抱き枕でも求めるみたいに僕にギュッとしがみ付いてきて。
その動きに呼応するように春凪の髪からふわりとフローラル系の優しい香りが立ち昇る。
あー、まずい。これは結構くるな、と思ったと同時、強く押し当てられた身体から、春凪のふくよかな胸の柔らかさと仄かな温もりが伝わって、僕の理性は危うく崩壊寸前になる。
好きな子が腕の中にいるのに手を出せないと言うのはかなり堪えるな、と思いながら。
頭の中、邪念を追い払うみたいに羊を懸命に数えたのまでは覚えている。
***
どうやら僕もあのまま寝落ちしてしまったみたいだ。
春凪の頭が一晩中乗っていた右腕の感覚が余りないのは、ずっと春凪を離さずに眠っていられた証拠にも思えて。
――あ、これって結構誇らしい痺れかも?
眠ったふりをしていたくせに、思わず口の端に笑みを刻んだら、春凪が「宗親さん……あの、ひょっとして……起きて……いらっしゃいま、すか?」と、恐る恐る囁くような声で聞いてきた。
――狸寝入りもここまでですね。
観念して目を開けたら、思ったより春凪の顔が間近にあって、僕は少し驚いてしまう。
僕に抱き締められたまま、何とか距離を取ろうと頑張っている風だったから、てっきりもう少し離れていると思っていたのに。
「おはようございます」
真っ赤になってソワソワする春凪をさらにグイッと引き寄せて挨拶したら「おっ、はよ、ござ、まっ」としどろもどろなのが本当に可愛い。
――そんな反応されたら、もっともっといじめてみたくなるんですけど。
「よく眠れましたか?」
彼女がしっかり眠れていたことは承知の上で問い掛けたのに、「ねっ、眠れたわけっ……」ないです……とでも言いたげな口ぶりをするから、僕は春凪を困らせたくなった。
「へぇ〜。そうなんですね。春凪、昨夜は僕にしがみ付いてとっても気持ちよさそうに眠っていらしたようにお見受けしたんですけど……実は起きておられた、と。ってことは……アレは寝たふりをした上での計算づくでの所業だったのですね。気が付きませんでした」
そこまで言って、僕はわざと目を眇めて春凪をじっと見つめた。
「春凪。――腹黒ドSな僕を求めていただけて、大変光栄です。せっかく誘って頂いたのに手を出さなくて済みません」
そう、わざとらしく付け足したら、大慌てで「そっ、そんなわけ、ないですっ! きっ、記憶が途中でなくなるぐらい……その、よ、酔っ払ってて。えっと……し、しっかり寝落ちしてました! ごめんなさいっ!」と手のひらを返すんだ。
本当この子はチョロくて可愛い。
「あ、あのっ。宗親さんっ。それでっ、その……えっと……そろそろ」
――離して頂きたいんですが……と語尾を濁らせる春凪に、僕は最上級の腹黒スマイルを贈る。
「すみません、春凪。僕はキミのお陰で昨夜はあまり眠れていないんです。キミはとっても抱き心地がいいので……もう少しだけこのまま……」
腕の中で「そっ、それは困りますっ」「おひとりの方がきっと寝心地最高ですよっ?」だのひゃわひゃわ騒いでいる春凪を無視して、僕は彼女を抱く腕に力を込める。
そうして寝落ちしたふりを決め込むんだ。
僕の可愛い春凪。
どんなに身じろいでくれても構わないけど、ひとつだけお願い。
少しの間だけ下腹部にだけは触れないでくれるかな?
男の、朝にありがちな生理現象だと思ってくれても構わないんだけど……実際のところはあんまりにもキミが可愛過ぎて、今は少しばかり宜しくない状態になっているから――。