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宗親さんと一緒に暮らし始めておよそ2ヶ月半。
この、コンシェルジュ付き高級タワーマンションに転がり込んだのは5月になったばかりの頃だったのに、気が付けばいつの間にやら鬱陶しかった梅雨も終わり、季節はすっかり初夏から盛夏に移り変わっていた。
さすがにこの部屋で彼とふたりきりでいることにも大分慣れてきたけれど、それでもやっぱり好みのど真ん中のお顔を間近で見るたびに、心臓がドキドキと早鐘を打つのは止められない。
宗親さんは、結婚式などはさておき、婚姻届自体は早く出してしまおうと言うお考えみたいで。
それを済ませるまでは私に手を出さないというお言葉も、何気にしっかり守っていらっしゃるの。
(私、初めてってわけじゃないし、別にそんなのこだわらないんだけどな?)
好きだから触れて欲しいとか……そんな言えるはずもない要望は飲み込みつつ。
もしかしたらそういうのもあるからかな?(と思いたいだけです、すみません)
真相は定かではないけれど、両家の了承が得られるや否や、「婚姻届、いつ出しても構いませんよね?」と言われてしまった。
今までは私の気が変わって破棄されてはいけないから、と友人――お店をやっておられるらしい――のところに預けていたらしい婚姻届。
それを、仕事帰りに受け取っていらして。
そういえば宗親さんのお家に初めてお邪魔した日、私は急遽決まったお泊まりの準備のため、単身コンビニに行ったことがある。
あの時、夕飯の買い出しついでに〝寄る所〟が出来たとおっしゃった宗親さんと、束の間別行動を取ったんでした。
どうやらその時、宗親さんはその友人さんとやらに書類を預けていらしたみたい。
あの日宗親さんがおっしゃった、〝寄る所〟はそこだったのね、と今更のように思い至る。
自分にも関係のある書類だし、もちろん今までだって私、「婚姻届、どこにやりました?」とお聞きしたことがないわけじゃない。
その度に宗親さんは「出す時が来るまで春凪にだけは秘密です」って言うばかりで、どこに隠したのか一切教えてさ下さらなかったの。
その時にも、宗親さんは「春凪が『やっぱりこの結婚はやめたいです』とか言い出したら困りますから」って付け足してらっしゃいましたっけ。
私ってば何て信用がないのっ!
確かに最初のうちこそ戸惑いまくりで、何が何だか分からないうちに書かされてしまった、人生をひっくり返すようなその書類を、取り戻したいという気持ちがなかったわけじゃない。
でも、今は……宗親さんのことを大好きになってしまった今は……そんな気持ちはさらさらないんだけどな?
織田家との家柄の差をまざまざと感じさせられたりするたび、確かに尻尾を巻いて逃げ出したくなることはあるけれど、それとこれとは別の話だもん。
ただ、宗親さんの方は、実際にそうなるのを防ぎたくて婚姻届を人質に、私を繋ぎ止めようとしておられたのは確かな気がします。
私が彼のことを本気で好きになっていることを、宗親さんご自身はご存知ないのだから無理ないよね。
そこまで考えて、私は思わず口の端に笑みを浮かべた。
だってだって……そう考えたら、理由はどうあれ宗親さんに必要とされているのかな?って思えて、私、めちゃくちゃ嬉しかったんだもんっ!
なのに――。
***
「春凪のマリッジブルー対策で、先手を打たせていただきますね」
と、とんでもないことを言い出した宗親さんに、私はさすがに驚いてしまう。
「マリッジ……? えっ?」
宗親さんの言葉の意味がよく分からなくてきょとんとしたら、「結婚式の準備などを始めると、色々煩雑になって、結婚自体をやめたくなるなんて話、よく聞きませんか?」とか。
確かにお聞きしますけど……。
「わっ、私たちは利害の一致で結婚するわけですし……そんなことでサヨナラにはならないんじゃないでしょうか?」
言ったら、宗親さんが一瞬だけ私を睨んでいらした気がした。
もしかして、利害が一致しているとか烏滸がましいことを言ったから、怒らせてしまいましたか?
宗親さんにはデメリットの方が大きかったですか?
それはそうですよね、すみません。
でも……。
〝私、実は宗親さんのことが大好きなので、偽装とは言え貴方と夫婦になれるの、凄く、すっごぉーく、嬉しいんですっ! てへ♥〟
だなんて本音を言われた方がお困りになられるでしょう?
仕方なく、宗親さんの顔色を窺うように、
「私、そんな短慮を起こしても住むところも家財道具も何にもありませんし……」
と、もっともらしいことをゴニョリと付け加えてみたり。
「それでも、です。――うちの家は案外面倒ですし、春凪の楽観的な言葉なんてあてにならないと僕は思っています」
と一蹴されてしまった。
確かに宗親さんの出自を思えば、うちとは家の格が違うから色々大変なのかも知れない。
でも、だからと言ってそんなに嫌になる程なんですか?
疑問符満載で宗親さんを見つめたら、「まぁ、あくまでも念の為ですから」とゴリ押しされてしまった。
じゃあ証人欄を埋めてもらわないとって思ってふと見ると、なんて手際がいいんだろう。
すでに宗親さんのお父様の織田嵩峰さんと、うちの父、柴田勝己の署名捺印がしてあった。
「お父、さん……」
てっきり私の方は母――良子――からのサインだろうと勝手に思っていたから、思わずつぶやいて。
宗親さんにニコッと微笑みかけられた。
あ、これ。腹黒くないスマイルだ。
「こうして書面で見ると、本当に僕との結婚をお父様にも許されたんだって実感がわいてきませんか?」
宗親さんがおっしゃる通り、その署名捺印を見た瞬間、お父さんも、ちゃんと折れて認めてくれたんだな、って改めて思ったの。
それでじわり涙目になりながらうなずいたら、ふんわり頭を撫でられて、やたらドキドキさせられる。
「でも、……あの、いつの間に?」
まさか郵送で送りつけたとは思えない。
でも宗親さんはずっと私と一緒にいらしたし……。
そわそわと眉根を寄せて宗親さんを見上げたら、「先日母が春凪の地元の方へ行った後にね、父にもあちらへ出向いて貰ったんです」とか。
そう言えばお母さん、電話で葉月さんがお父さんと何か話したって言ってた。
きっとお父さんの方へは嵩峰さんが会いに行きます、とかそう言う話だったんだ。
何て抜かりがないのですか。
嵩峰さんが直々に出向いて取り出した婚姻届を見て、あの見栄っ張りの父が、署名せずにいられるわけがない。
それでもちゃんとお父さん自らの意思で署名捺印してくれたんだ、と思ったら少しだけホッとしたの。
「春凪のお母様からも色々と言われておられたらしくて……父が出向いた折には拍子抜けするくらいあっさりと書いて下さったらしいですよ? あ。そう言えば春凪のおじいさまからも『孫をよろしくお願いします』って頭を下げられたって」
私の心を読んだみたいに、宗親さんが「――女性が本気になったらね、男は案外敵わないものなんですよ? 知ってましたか?」と付け加えていらっしゃるの。
そうして私の手をギュッと握るなり「だからこそ、僕は春凪の気持ちが変わらないうちにこの書類を早く出してしまいたいんです。――キミはお日柄とか気にしますか?」と畳みかけられた。
私はその話術に、いつもの宗親さんらしくない必死さを垣間見た気がして驚いてしまう。
その雰囲気に呑まれて「特には」と思わず答えてしまってから、すぐに思い直して言葉を紡ぎ直した。
「あ、あのっ。やっぱりせっかくだから大安か友引がいいです」
何となく――。
言ったら「分かりました。善処しましょう」と微笑まれて。
あ。これはいつもの腹黒スマイルだ、とホッとする。
さっき、やけに一生懸命に見えたのは、きっと私の気のせいだよね?
何となくそっちの方がいつも通り落ち着くな?とか思っている私は、大概宗親さんに毒されているんだろうな。