死んだはずの、吾妻勇太の姿がそこにはあった。
「勇太兄さん」
公式の場であるのを忘れて、沈思熟考は兄の名を叫んだ。
「……副会長!」
「副会長!」
突然現れた吾妻勇太を呼ぶ声が、式場のあちこちから聞こえてきくる。
「久しぶりだな」
吾妻勇太が誰にも聞こえない声でつぶやいた。
静岡県の海岸で遺体となって発見されたと報じられてから一ヶ月。
再び姿を現した吾妻勇太は、以前にくらべ痩せこけていた。そればかりか頬から耳にかけて焼け焦げたような裂傷が見られ、柔らかな印象だった目は鋭く光っていた。
亡霊ではない実物が立って呼吸をしている。
もちろん勇信が仕組んだ演出ではなく、特殊効果が施されたCGでもない。
勇太を目撃した出席者全員の驚愕した表情が、真実を物語っていた。
勇太の姿に、就任会場は一気に狂乱の宴となった。
副会長! 副会長!
本当に……本当に副会長なのですね!
副会長、どこにいらっしゃったのですか!?
多くの社員が一斉に吾妻勇太を取り囲んだ。
沈思熟考も兄に近づこうとしたが、取り巻きが多いため立ち止まった。ただ壇上から大勢に囲まれた勇太を見つめている。
「……兄さん」
自宅のリビングルームで中継を見ていた5人の勇信が同時につぶやいた。
あまりの驚きに額には大量の汗が滲んでいる。
全員がまばたきも忘れたまま、混乱するモニター内の式場を見つめていた。
「誰か、すぐに美優ねえさんに連絡してくれ。兄さんが生きていたことを知らせてやらないと……あっ」
あまのじゃくとポジティブマンが口を揃え、自分たちの置かれた状況を思い出しては黙った。
「今は画面の中の俺だけが吾妻勇信だ。電話などしてはならないし、そもそもこの家にいてもいけない」
会場はデモが起きたように騒然となったままだ。
そのとき、モニター画面に映る沈思熟考がカッと目を開き叫んだ。
「皆さん、ちょっと静かにしてくれ!」
マイクを通じて響く大声に、全員が凍りついた。
沈思熟考がゆっくりと勇太に向かって歩いていく。
海割れでも起きたように、人々が道を開けた。
「兄さん。一体何があったんだ? どうやってここに」
勇信と勇太が顔を合わせたのは一か月ぶりのことだった。
「吾妻常務。副会長と呼べ。ここが公式の場であるのを忘れるな」
勇太は弟の悲痛な表情を感情なく見つめた。そのまま勇信の横を通り過ぎ、司会者の席へと行ってマイクを手にした。
壇上の優太が周りをゆっくり見渡した。
その場にいる全員が固唾を飲んで優太を見守った。
「親愛なる社員の皆さん。今目の前で何が起こっているか、混乱していることでしょう。連日のニュースでご覧になったと思いますが、私は事故で命を失ったとされています。ですが報道の内容は真実ではありません。私がこうしてここに立っているのですから。
私は死んでなどいません。未来ある吾妻グループを捨てるようなわがままを、私が選択するはずありません。私にできることはただひとつ――」
吾妻勇太はそこで言葉をとめ、揺るぎない視線でカメラを見つめた。
「私は暗いトンネルのような時間の中に閉じ込められていました。そこはとても暗く、終わりのない絶望のような時間でした。しかし絶望の中で、私はようやく自分の役割に気づいたのです。
明日、マスコミを呼び正式に記者会見を行うつもりです。そこで私が健在であることをアピールし、そして吾妻グループの未来について話そうと思います」
吾妻勇太はマイクを置き、そのまま就任式場をあとにした。
呆然となる会場。
司会者がマイクをつかんだ。
「私もまだ混乱していますが、あ……吾妻副会長は生きてらっしゃいます。副会長が戻ってらっしゃたので、今日の就任式はキャンセルということでよろしいのでしょうか? せ、専務。ご確認をお願いいたします」
壇上に戻った沈思熟考は、しばらく考えに浸ったあとマイクを握った。
「副会長が戻ってこられて、これ以上喜ばしいことはありません。本日の就任式はキャンセルとさせていただき、今後も吾妻勇太が副会長としてグループを統率させていただきます」
「承知しました。常務の同意をいただきましたので、本日の就任式は中止とし、これをもって終了とさせていただきます。すでに正午を過ぎていますので、社員の皆さんはすみやかに昼食をとってください。私も昼食の約束があるので――。ああ、私は今何を……。申し訳ございません。それでは本日の就任式を終わらせていただきます。また次回お会いしましょう」
就任式の放送はここで終了した。
「……勇太兄さんが生きていた」
「まさかこんなことが起こるなんて……」
自宅で待機する5人の勇信が一斉にため息をついた。
5人は呆然となったまま、キャベツの千切りを口に入れてミニトマトを食べた。それからシェフが作ったみそ汁を一口飲み、嘔吐しそうな表情を浮かべてからお椀をテーブルに置いた。
「みんな、あまりのショックで味覚を失ったみたいだな」
シェフがひとりつぶやいた。
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