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暗い刑務所の廊下には、重いブーツの音だけが反響していた。足音の主はおそ松看守長ではなく、新米看守の一松だ。薄汚れた制服に身を包み、猫背気味の姿勢で歩く一松は、この巨大な石造りの要塞に配属されてから三日目の夜を迎えていた。
「おい新人」
同僚の看守が肩を叩いた。
「D区画の巡回は避けたほうがいいぜ」
「どうしてですか?」
「……男を見たら魂を持っていかれるからさ」
一松は眉をひそめた。この刑務所では特に凶悪犯を集めたD区画のことをそう呼んでいた。数年前に起こった『男性連続殺傷事件』の容疑者たちが収監されているからだ。その中でも最も危険なのが……。
「やあ一松くん!」
鉄格子の向こう側から声がかかった。
一松は驚いて振り返る。そこには青白い顔色ながらも端正な顔立ちの男が立っていた。囚人番号D-136569、松野カラ松。
「お前の顔は覚えているぞ。昨日の夕食当番だったね。俺のために多めに肉を入れてくれてありがとう」
一松は息を飲んだ。あの時、確かにミスをしてしまったのだが、それを指摘されたのは初めてだ。
「きょ……今日は巡回だ」
「わかってるさ」
カラ松は微笑んだ。
「でも見ての通り暇なんだ。話し相手になってくれないか?」
他の囚人が罵詈雑言を浴びせられる中、一松はその場を離れられなかった。
次の日の昼下がり。一松は再びD区画へ向かう。今度はカラ松の個室へ直行する許可を得ていた。特別囚人であるカラ松は単独部屋を与えられている。
「入ります」
部屋に入ると異様な臭気が鼻を突いた。それは絵具と腐敗した何かの混ざった匂いだ。壁一面には奇妙な絵が描かれている。
「新しい作品だ」
カラ松が近づいてきた。
「今日も来てくれたんだね。嬉しいよ」
絵の中では無数の人間が絡まり合い、血のような赤黒い液体が流れ出している。一松は目を逸らしたくなったが、不思議と見入ってしまった。
「……これが君の『贖罪』なのか?」
「贖罪?」
カラ松は笑った。
「違うさ。これは『愛』の表現だよ。俺はね……人の体を切るのが好きなのさ」
突然の告白に一松は凍りつく。
「彼らの皮膚の感触……血液の温もり……内臓の動き……全部覚えている。美しいと思わないか?」
「狂ってる……」
「そう思う?でも一松くん、君も興味津々だろう?」
カラ松の冷たい指が一松の頬に触れた。一松は震えた。怖いのに体が動かない。むしろ……どこか心地よい。
「明日も来てね」
カラ松が囁いた。
「もっと面白いものを見せてあげよう」
一週間後。一松は毎晩カラ松の部屋を訪れている。他の看守たちの視線を感じても止められなかった。ある晩のこと……。
「一松くん」
カラ松は一枚の紙を差し出した。
「これを見て欲しい」
それは水彩画だった。一松の似顔絵だ。しかし瞳の部分だけが空白になっている。
「完成させるのに必要なものがあるんだ」
カラ松は真剣な眼差しで言った。
「君の眼球を一つ分けてもらえないか?」
一松は後ずさった。
「冗談じゃない!」
「残念だなぁ」
カラ松は肩をすくめた。
「じゃあ代わりに……キスしてくれる?」
予想外の要求に戸惑う一松。カラ松の唇が近づいてくる。一松は抵抗しなかった。むしろ自分から口付ける。
唇が触れ合った瞬間、一松の中で何かが壊れた。
それからの日々は甘美な拷問だった。カラ松との密会はエスカレートし、一松は制服の下に隠したナイフを持参するようになった。カラ松が喜ぶのは小さな切り傷を与える時だった。
「もっと強く」と彼はいつも求めてくる。
ある夜、あまりにも激しい行為の末、一松はついに警告を超えてしまった。カラ松の胸元に深い傷をつけてしまったのだ。
「ごめん……!」
涙ながらに謝る一松に対し、「最高だ」とカラ松は血まみれの笑顔を見せた。
「新人」
ある朝、おそ松看守長が声をかけてきた。
「最近痩せたんじゃないか?それに……目の下のクマも酷いな」
「大丈夫です」
「本当に?」
おそ松は一松の襟首を掴んだ。
「D区画の巡回後には必ず身体検査を受ける規則があるはずだが……」
言葉に詰まる一松。おそ松の目が鋭く光った。
「今すぐ医務室に行け。そして正直に話すんだ」
逃げるように去った一松は鏡に映る自分の姿を見た。明らかに変貌していた。目は虚ろで肌は蒼白、そして首筋には幾つもの吸血痕のようなものが残っている。
「もう戻れない……」
その時、ポケットの中で何かが震えた。カラ松からのメモだ。『今日の深夜十二時、鍵を開けろ』と走り書きされていた。
選択肢は二つしかない。従うか……あるいは全てを終わらせるか。
その夜、一松は決意した。看守室から持ち出した銃を握り締めながらカラ松の房に向かう。
「遅かったじゃないか」
カラ松はいつものように微笑んだ。
「約束は守ってくれるよね?」
「あぁ」
一松は静かに答える。
「だから……君を殺しに来た」
カラ松の表情が凍りつく。
「何だって?」
「みんなが正しいことを言っていた。僕たちは壊れている」
一松の手が震えていた。
「終わりにしよう」
引き金に力を込める一松。しかし──
「待て」
カラ松は両腕を広げた。
「君と一緒に死ぬなら本望だ。だが、知りたくないのか?なぜ俺があんなことを繰り返したのか」
一松の指が止まった。長い沈黙の後、彼はゆっくりと銃を下げる。
「聞かせて」
「実のところ……」
カラ松は語り始めた。
「俺たちは双子だったんだ。生まれたときからずっと一緒だった弟がいた。でもある日……母さんが俺を間違えて殺し屋の男に売ったんだ」
衝撃的な真実が明かされる中、二人の距離はまた一層縮まっていった。しかしそれは救済ではなく、より深い絶望への入り口だ。
この先にあるのは果たして破滅なのか解放なのか─誰にもわからない。
だが確かなことはただ一つ。二人は既に戻れない道を歩み始めてしまったということだけ。