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二人で身支度を整え、外に出ると、上からエコバッグを手にした専務とお孫さんが下りてきた。
「こんにちは」
和香と二人で声をかけると、おやおや、という顔で専務がこちらを見る。
「そういうことだったんですか。
いやいや、美男美女でいい組み合わせですね。
石崎くん、彼はね、どんな仕事にでも真摯に向き合うし。
ほんとうにいい男なんですよ。
見た目だけでなく――。
どうか、神森くんをよろしくお願いしますね」
と笑顔で言われ、和香は、はいっ、と言って、ペコペコ頭を下げていた。
従順な部下に見える。
おそろしい演技だ、と思ったが、どうやら、和香は本気でペコペコしているようだ。
……お前、ほんとうにやめろ、復讐、と耀が思ったとき、和香が専務に向かい、
「あのっ」
と話しかけた。
専務が、なんだね? と和香を見る。
「……あっ、いえ。
やっぱり、なんでもありません」
そうごまかすように和香は言った。
専務たちと別れたあと、耀は振り返りながら、
「なんか緊張したな。
スパイの気分だった」
と言う。
「いや、スパイ舐めないでくたざいよ。
って、私もそういう組織にいただけで、ただの事務員なんですが」
と呟きながら、和香は坂を上がっていた。
いい天気だ。
冬の薄青い空が坂の上にある団地の上に広がっている。
「どうかしたのか?」
と耀が訊いてきた。
「いえ……。
なんか今、人生の目標を失いそうになって」
「お前の人生の目標ってなんだ?」
と問われて答えなかった。
まあ、専務たちに復讐することだとわかっているだろう。
ふと手が温かくなる。
耀がそっと和香の手を握っていた。
「お前の人生の目標はあれだろ。
図書館の前の白い家に住んで、俺と子どもたちと平穏に静かに暮らすことだろ」
そう言ってくれる。
「……そうなんですかね?」
「そう自分に言い聞かせてたら、そうなるさ。
俺が毎日言って、暗示をかけてやる。
壁に書いて貼ってもいいな」
「『人生の目標は、図書館の前の白い家に住んで、課長と子どもたちと平穏に静かに暮らすこと』って?
長いですよ」
「臥薪嘗胆って言うじゃないか。
薪の上に寝て、苦い肝を嘗め、屈辱を刻みつけ、忘れない。
お前は、うちのふかふかのベッドに寝て、甘くて美味いケーキを食べ、今のこの幸せを忘れなければいいんだ」
と言ったあとで、耀は、
「いや、今が幸せかどうかはわからないけどな」
と不安になったように言う。
「幸せですよ」
そう言い、和香は耀の手を握り直す。
そうか……と耀は視線をそらした。
「あと、このケーキ屋が美味いかどうかも問題だが……」
団地の中にあるそのお店は、小洒落た新しい家の一部が店舗になっているお店だった。
ちょうど庭を掃きに出ていたらしい和香たちより少し年上の女性が、玄関まで走ってきた。
ひとつに髪をまとめた、しゅっとした顔つきのその女性が叫ぶ。
「聞こえてるわよ、耀っ。
私の作るモノにまずいはないわよっ」
結婚して岩城という名字になったという彼女は、耀の大学時代の先輩で。
結婚して建てた家の一部を使い、念願だったお店を開いたのだと言う。
耀が近くに越してきたと知って、前から買いに来いと言っていたらしいのだが。
男一人でケーキ屋に行くの、行きづらい、と思った耀が今まで来ていなかったようなのだ。
見るからに、姉御っぽい岩城が叫ぶ。
「あんたがそういう態度なら、サークルの呑み会であんたが酔っ払って。
みんなに担がれて帰ったり、道端に捨てられたりした話をその可愛い彼女にするわよっ」
……昔から、そんな感じなんですね、と思いながら、和香は笑った。
岩城の店のケーキはどれも美味しそうで選べなかった。
迷う和香を見て、耀が五個も買ってくれた。
「俺はひとつでいいから、あとは全部食べろ」
四つも食べたら太るではないですか、と思いながら、和香は耀の家のリビングのテーブルで、どれから食べていいのかわからずに苦悩していた。
やはり、王道のこってり濃厚チョコケーキかっ。
中が一部ムース状になってるのも惹かれるしっ。
でも、生クリームが絶品だと、あのあと買いに来ていた近所のおばちゃんが言ってたな。
すると、この真っ白ふわふわ生クリームに、真っ赤なイチゴののったショートケーキかっ。
でも、このシンプルで、しっとりしたチーズケーキも捨てがたいっ。
カラメル部分の焦げ色のいい、硬めのレトロプリンもっ。
ふんだんにのったフルーツが窓から差し込む昼の光につやつやと光ってみえる季節のタルトもっ。
どれも美味しそうで選べないっ。
和香は色鮮やかなケーキのつまった箱を前に、かつてないほど、苦悩していた。
なんなんだろうな、この生活……。
素敵なおうちに、選びきれないほどのケーキ。
いい香りのする紅茶に、素敵な王子様。
いや、この王子は何故か、羽積さんを自分の王子だと思っているようなんだが……。
ともかく、臥薪嘗胆、無理っ。
薪の上に寝て父の仇討ちを忘れないようにする生活とは真逆だっ。
そう思いながらも、和香は震える手でケーキの箱に手を伸ばす。
「ふ、ふたつ、食べてもいいですか?」
「全部食べてもいいと言ったろう」
本をめくっていた手を止め、こちらを見て耀が言う。
「あ、ありがとうございます。
せめて、今夜から薪を用意して、その上で寝ることにします」
と宣言して、
「いや、お前が薪の上に寝るのなら、俺も寝ることになるからやめてくれ……」
と言われてしまった。
今日も帰ってこないな。
その日の夜、羽積は缶ビールを手に、アパートの外廊下から月を眺めていた。
灯りのつかない和香の部屋の小さな窓を振り返りながら、
……まあ、あの男に夢中になって、復讐を忘れてくれるならそれもいいか、と思う。
羽積の頭の中では、和香は耀とラブラブな夜を過ごしていたが。
実際には、和香は、
「薪がないのなら、せめて、風呂場のすのこの上で寝ますっ」
とよくわからないことを言って、相変わらず、耀を困らせていた。
羽積は和香のために持っていたもう一本の缶を見た。
そろそろ、ぬるくなろうとしている。
一日、ビール二本は呑まないことにしている。
酔うと何事にも対処できなくなるからだ。
そのとき、三階の主婦、富美加が階段を上がってきた。
子どもを塾に送って行ったきたようだ。
部活が終わってから、真っ暗な時間に塾。
子どもも大変だな、と思ったとき、
「こ、こんばんはっ、羽積さんっ」
と富美加に言われ、こんばんは、と返す。
「ああ、そうだ。
これ、あげます」
と羽積は呑んでない方の缶ビールを彼女に渡した。
和香に渡そうと思って持って出たものを家に寂しく持って戻るのが嫌だったからだ。
富美加はそれを両手でおしいただくように受け取る。
「あ、ありがとうございますっ。
ありがとうございますっ
神棚に飾りますっ」
と何故か大感激されてしまった。
耀は夜中に目を覚まし、和香が隣にいないのに気がついた。
一階に下りてみると、和香は暗がりのダイニングテーブルに座り、スマホを見ている。
電気をつけてやり、
「目が悪くなるだろ」
と言うと、和香が振り返った。
「あ、すみません。
起こしてしまいましたね」
「なに見てるんだ?」
ダイニングテーブルに手をつき、和香のスマホではなく、和香の顔を覗き込むと、
「海外ドラマです」
と和香は言う。
アメリカのサスペンスもののようだった。
「眠れなくなるほど面白いのか?」
「いえ。
いつ面白くなるのかなあと思って、頑張って見てたんです」
「……意味がよくわからないが」
和香がちょっと笑った。
「すみません。
眠れなくて」
そう言いながら、和香はスマホを閉じようとして、なにかに気づいたように画面を眺めていた。
渋い顔をする。
「どうした……」
なにかよくない知らせか?
と訊くと、
「いえ、私にはまったく関係ないお知らせです」
と和香は言う。
「カードを停止しますっていう迷惑メールなんですけど。
それ、この辺にはない、都会でしか使えないカードなんですよっ。
そもそも、持ってないよ~っと思って」
なんか、イラッときます~っと言う和香に、
「死ぬほど、どうでもいいな……」
と耀は言った。
今の話がほんとうかどうかわからないな、と思いながらも。
「それにしても、課長。
昔からお酒弱かったんですね」
と岩城の話を思い出したのか、和香は笑った。
「……悪いか?」
悪くはないです、と和香は言う。
「お酒、弱くてもいいです。
でも、私がいるとき以外、呑まないでください。
誰にも送られないでください。
課長を送るのは、いつも私でありたいです」
耀は黙って和香を見下ろしたあとで、
「……お前が俺の王子様か」
と言う。
「課長の王子様は羽積さんじゃなかったんですか?」
気が多いですね、と和香は笑った。