コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
日曜の朝、和香は耀と早朝の散歩に出た。
歩く道中、耀が言う。
「散歩とは、古代中国で、強すぎる薬の害から逃れるために、歩き回っていたことからできた言葉らしいぞ」
はあ。
なんですか、その朝のきらめきや爽やかさの吹き飛ぶような話題は。
でもなんか、課長の話の、そういうテンポにも慣れてきたな、と思った。
家に戻ると、二人で朝食の支度。
その楽しい食事の席で、和香は眉をひそめた。
小鉢に緑色の、どろっとしたものが入っていたからだ。
「めかぶですか~」
「めかぶ嫌いか?
もずくもあるぞ」
「……健康的なものばかりですね」
と和香は眉をひそめる。
「どっちも食べられないのか?」
「あんまり、進んでは食べませんけど。
料亭とか。
ホテルの朝食で出たら食べますね~」
「じゃあ、ここをホテルだと思え」
まあ、確かにそんな雰囲気はあるな、と和香は耀の家のダイニングを見回す。
ここで課長と子どもたちと暮らす、か。
そんな未来が自分に訪れていいのだろうか。
復讐のことしか考えずに生きてきた自分なんかに――。
夜、アパートに送ってもらうと、ちょうどドアに鍵をかけている羽積と出くわした。
「お疲れ」
と素っ気なく言ってくる彼の髑髏のキーホルダーを見、自分の赤いリンゴのキーホルダーを見た。
「キーホルダーって、個性が出ますよね」
と和香が呟くと、耀が、
「俺は指紋認証だから、キーホルダーないぞ」
と言う。
「無個性ってことですかね」
と言って、睨まれる。
横で聞いている羽積がちょっと笑っていた。
私が課長といて、変わったな、と思うところ。
ホテルでも料亭でもないのに、めかぶやもずくが食べられるようになったこと。
おねえちゃんに、
「魚が可哀想……」
と言われる感じにしか食べられなかった焼き魚が、課長の真似をしていたら、綺麗に食べられるようになったこと。
おや、食べることばっかりだ、と和香は思った。
俺が和香と出会って変わったこと。
間抜けになったこと。
間抜けなことを平気で人に言えるようになったこと。
おや、間抜けなことしかない、と耀は思った。
「私は庶民ですよ。
お金持ちなのは耀の父の方」
久しぶりに母の元を訪ねると、相変わらず、何処の女王様ですか、という口調で母が言う。
ええっ!?
と驚く和香に、母が命じる。
「和香さん、あなたのいい写真はないかしら?
今度、久しぶりに姑に会うのよ。
女帝みたいな人で恐ろしいんだけど」
と女帝のような母が言うので、和香が、!? という顔をする。
「あなたの話をしておきたいの。
別に顔をさらしても、問題はないんでしょう?」
「あの……」
と戸惑いながら言う和香に、母は、
「私にわからないことなんてないのよ」
と言った。
「和香さん、あなたが復讐を遂げたいと言うなら、我が家には様々な武器があります」
どんな武器!?
と耀は、和香と二人、身を乗り出す。
「そうそう。
伝説の妖刀もあったわ」
耀の頭の中で、妖刀で専務たちが斬られていたが、妖刀なので、和香にも呪いがかかっていた。
「鞘から抜くと雨が降るらしくて、あまり抜かれたことがないらしいんだけど」
「今度から、突然、雨が降り出したら、誰かに妖刀で狙われてると思うことにしますよ……」
と耀は呟く。
「妖刀、いるのなら、貸してあげるけど。
今すぐ復讐するのでないのなら、そんなことより、和香さんのベストショットな写真をちょうだい」
と母はまた和香の写真を要求する。
「今回の姑訪問は、耀の花嫁の話題で乗り切るから」
この母にとっては、和香の復讐より、姑と顔を突き合わせることの方が一大事らしい。
「急にいい写真と言われましても」
と和香が言うと、
「じゃあ、いいわ。
今から適当に撮るから」
と母はゴソゴソ、スマホを出してくる。
ブランド物の落ち着いた革のスマホケースから、妙にキラキラとデコったものにかわっていると思ったら。
友人の小学生の子どもが作ってくれたものなのだと言う。
……この人のこういうところは嫌いではない。
だが、この人に和香の写真を撮らせようものなら、細かいことにはこだわらない人なので。
適当にものすごい半目な写真を撮っておいて、
「あら、いいじゃない。
和香さんは可愛いから、これでもいいわよね」
とか言って、そのまま差し出しそうだ。
「いや、待ってください。
そういえば、いい写真があります」
耀は財布の中をゴソゴソし、例の写真を取り出した。
「これで」
「……なんで証明写真よ」
と母は、その小ささに眉をひそめたあとで、
「じゃあ、ついでに履歴書も書きなさいよ」
と言った。
「いやー、驚きましたねー、お母様」
帰りの車の中、和香は母の真似をし、朗々と響く威厳のある声で言った。
「吾輩は庶民であるっ。
名前はまだないっ、みたいな」
「それだとうちの親が、猫みたいになるじゃないか……」
「でも、『~は~であるっ』って言い切ったら、『名前はまだないっ』って続けたくなりませんか?」
いや、そこは、言い方次第では……。
「それにしても、証明写真をつけた履歴書など提出してしまうと。
『課長の花嫁』って求人に応募したみたいに思えて。
ちょっと照れてしまうのですが……」
「……何処で募集してるんだ、その『課長の花嫁』」
和香は小首をかしげたあとで、
「ハローワークですかね?」
と言う。
「嫌だろ。
そんなところで募集するやつも応募してくるやつも」
「いやいやいや、わからないじゃないですか。
ときどき、普通にハローワークに行って、すごい職に出会ったって人いますから。
そういうのもあるかもしれませんよ。
今度見に行ってみませんか?」
「行って、『社長の嫁、募集』とかあったらどうするんだ。
そっちに行くのか」
と横目に見ながら訊いたが、和香は、ははは、と笑ったあとで、
「そもそも、私は誰の嫁にもなりませんよ」
とまとめた。
……いや、俺の嫁にはっ!?
と振り向いたが、和香はスマホを手に呟く。
「課長は私はまだなにもしていないから、なんの罪もおかしてないと思っていらっしゃるのかもしれませんが。
……意外とそうでもないんじゃないかと思う、今日この頃なんですよ」
和香はそんな不思議なことを言っていたが、すぐに、いつものように、くだらないことを言い出した。
「そういえば、ハムエッグを作ろうと思ってたのに、毎日、卵買い忘れて。
気がついたら、ハム、腐ってたんですよ。
最近、家に帰ることも少ないですしね。
それで、このまま捨ててはハムが可哀想だと思って。
歌を詠んだんですよ」
「……何故、そこで歌を詠む」
和香はこちらのツッコミなど気にせずに、指を折りながら詠んでいた。
「ハムエッグ。
作ろうと思ったのに。
卵ないまま、ハム、腐りゆく。
……字あまり」
しばらく黙っていろいろ考えたあと、耀は、
「いやっ」
と叫んだ。
「字あまりとかなんとか、そういう問題じゃないぞっ?
なんなんだ、今のはっ?
短歌!?
俳句!?
自由詩かっ!?
っていうか、なんでハムの供養に歌を詠む!?」
「せめて成仏してもらおうかと」
「なんで、腐ったハムが歌詠んでもらって成仏すると思うんだっ!?」
そんな脳をやられそうな会話を繰り返していたので。
うっかり和香の小さな変化を見逃してしまっていた。
アパートの前で降りた和香に、
「伝説の妖刀、借りなくてよかったのか?」
と言うと、
「そんなもの会社に持ち込んだら、専務たちをやる前に、私が警察にやられちゃいますよ」
と言って和香は笑った。
鉄製の階段を上って行きかけて、和香は振り返る。
「……課長」
なんだ? と開けている窓から見上げると、和香がちょっと笑って言う。
「またお散歩して、図書館行って。
岩城さんのケーキ買いに行きましょうね」
「……ああ」
じゃあ、と和香は軽やかに階段を駆け上がっていった。
シンデレラは十二時の鐘が鳴ったら、階段を駆け下りていくが。
うちのシンデレラは駆け上がっていくんだな、とそのとき、なんとなく思った。