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瀬名 紫陽花
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春の骸が空き匣に降り積もる。
喉の下、鎖骨の後ろ、天井の無い匣に、切れはしの世界がきまぐれに落ちる。歩道の端に身を固め合う春骸がはらはらはらりと落ちてきた。牡丹雪の着地に似た、囁かな衝撃が胸を突く。
春骸を人は花筵と呼ぶ。
切れはしの山を人は心と呼ぶ。
骸の上、葉擦れの音が寄せては返す。僕の焦燥が激しい。新緑の津波が、鼓膜の内側で喧しい。
つまり、地球は回転するのか、この動揺も露知らず。僕一人に春一つ慣れさせずに、この星は長い夏を進むのか。
僕を待たずに行ってしまうのか?
兎にも角にもすがりつきたい衝動が吹き出、動脈を流れて腕を伝った。
ひと振り。
ふた振り。
から振り。爪の隙間に空が詰まる。
み振り。
捕まえた。
本当に?
これ以上何も変わらないというのに、僕は一秒ほど十分に躊躇ったのち握り拳を開く。
あぁ。僕の右の掌にきちと在ったのである。ぽうとほてった色がまたたいており、僕は知らぬ間に微熱のこもった息を漏らしている。
腸からしずかな興奮が上り詰めた。確かな春に触れたと思った。漸く春に追いついた。遂に辿り着けたのだ。これで迫り来る夏を受け入れられる気がした。
振り返って思い出す。顔の右半分を歪ませた代崎の両目が僕の腹辺りを捉えているように見える。
僕の視線に気がついたか、君がふいと髪を広げた。
僕の姿はいかに滑稽だったろう。藻を掻くようで、溺れるようで、醜いものだったのだろう。
君の瞳も骸だった。
易しく輝くあれらをどうせと吐いて、代崎は電球を嘲った。右頬を上げ睫毛を下ろし厭味たらしくわらう、まるで怨む為に生まれてきたような人だと思った。
しろじろとひえる余燼を人は星と呼ぶ。
ハロゲンの熱も、核融合も、僕には同じだ。ただ骸でさえあれば僕の心は揺れるというのに、驚くべきことに代崎はものごとの価値において真性を希求するようだ。代崎との乖離は、息をする肺の細く捩れる細かい痛みを僕に教える。代崎がつまらないと吐くたび先に頭上で明滅していた造夜が僕の中では骸になった、所詮偽物であろうと僕にとっては替えのきかない骸だった。
入り日から次々と注がれる火種が窓を越し列車内へと移る。穏やかな燃焼を続ける床に、代崎の棒切れのような左脚が焚べられていた。目を背けた途端に灰となり、ふと吹き飛んでしまいそうに思えた。あくびですら舞ってしまいそうな軽やかさが触れるように伝わった。
しかと掴んでいなければならなかった。しかし僕の投げた袋の編み目は粗くて、君の心は容易に摺り抜けた。
僕にはわからない。わからなかった。わからない儘我を失いもつれた足で駆けた。
研いだ鋼の鋭さを僕は玩具と呼んだ。死を懸けた押し問答を君は芝居と呼んだ。
人が二体も潜り込んで尚、底冷えの布団は時折蠢く。虫網みたいだ。代崎の毛先が僕の背中を擽り、刺す。暫くするとお互いの体温が溶け出し、身を縮める必要はなくなった。代崎は暑い暑いとうめくが、僕にとってはやけに冬じみている。
丸まった衣服の薄いが代崎を包むこころもとなさと言えばきりがない程だった。適切なせりふが浮かばなかった。苦しまぎれに噎せてみた。弁解を君に風邪と呼ばせた。
翌朝、代崎は来なかった。
────玄関前、床の模様で迷い子と化す。磨り硝子に濾し斜陽。延々蜿々とわめく僕の唇にさっとぬるい指が滑った。汐が引き、刹那僕は母であったものを呆然と振り仰ぐ。怠けた動作と霞んだ眼のくらぐらとしたそら恐ろしさが瞬きすら止めた。つやのある髪を片耳に載せながら、女性は、精一杯ほほえむ。そこに含まれた憐憫が首を撫で緩やかに纏いつく。透きとおった膜が脹らみ、冴えた呵責、澄んだ悲哀を縫い留めるよう覆い尽くした。さながら裳だ。くぐもる泡の中だった。
包丁が玉葱を刻むように踵が笑いだす。虚ろいだ愛がやがて遠ざかった。かけ離れていった。
あれは母の置き土産だったのだろうか。
乾いた皮膚による口止めがいつまでも残っている。────
つぶれた舌先は幾つ意図を絡めただろう。呼吸の下手な僕が辛うじて紡いだ言葉はいったい幾枚の衣に包まれていただろう。
反芻する。言葉を、凶器を、思い出す。
僕は本物を使えない。
志田宮のそういうところが嫌い。と云う代崎の聲が聴こえる、岩陰の土のような君のこえが聞こえる。僕だって僕のこのようなところが恥ずかしくて堪らないのだ。身を裂きたいほど憎らしいのだ。
二束の声が木霊みたいにひびいている。
美しいを僕は骸と呼ぶ。
かつて贈った褐返し。 君の価値孵し。
きぬぎぬ、逝った君の十二単が伸し掛る。
君の脱ぎ捨てた裳が更に僕の喉を締めた。