あいつが、可愛いと言われていた。
正気か。
土気色の肌に、酷く澱んだ隈。威圧感ばかりが無駄に育ったあの男が、だ。
冗談なら、もう少しウィットに富んだものを願いたい。
***
幸か不幸か。――いや、語るまでもなく後者だ。
公安とFBI。水と油、あるいは光と影。相容れぬはずの両者は、一人の少年の差配によって「協力」という名の歪な握手を交わすことになった。
胃の腑が焼けるような不快感を、僕は「YES」という三文字で無理やり飲み込んだ。
「コナン君」
「ん? どうしたの、安室のにいちゃん」
「このシェルターに籠もって、随分と時間が経った。……次の行動の目処は立っているのかい?」
「もちろん。そろそろ赤井さんから連絡が来る頃だよ」
赤井。
その名を頭の中でなぞるたび、胸の奥がひりつくような感覚に襲われる。
あの日、親友を失った。恨んで、憎んで、その感情だけを標導にしてきたはずだった。
……それが、単なる掛け違いだったと知ってしまった今。
僕の中の方程式は、あまりに無惨に崩壊している。
何事もなかったかのように、ただ静かに息をしているあの男のことが、どうしても理解できなかった。
「……赤井、か」
「あはは、安室さん。赤井さんのことになると、急に顔が怖くなるね」
「え? ああ……そうかな」
「うん。苦虫を噛み潰したっていうか、今にも噛みつきそうな顔。……余裕、なさそうに見えるよ」
「……君は相変わらず、人を見透かそうとするんだね」
否定はできなかった。
赤井秀一という存在が思考に混じるだけで、僕の脳は平時のような精密さを失い、怠惰に仕事を放棄したがるらしい。
この落ち着かない沈黙を埋めるには、適当な世間話でも振るのが正解なのだろう。
「君は、赤井と普段どんな話をしているんだい?」
「うーん。僕もしょっちゅう会えるわけじゃないけど……料理の話とか、よくしてくれるよ」
「料理?」
「うん。赤井さんって、自分の得意なことや好きなことを話すとき、少しだけ嬉しそうにするんだ」
「……そうか?」
「なんだかイメージと違って、ちょっと『可愛らしい』んだよね」
少年は慈しむような笑みを浮かべてそう言った。
対する僕はおそらく今、人生で一番間抜けな貌を晒している。
***
黒い霧を振り払うための呉越同舟――FBIとの歪な共闘に、終止符が打たれようとしていた。
デスクに積み上げられた事後処理の書類の山に軽く眩暈を覚える。だがこれ以上は部下に任せても支障はないだろう。
僕は馴染み深い安室透という衣を纏い直し、喫茶ポアロのシフト表へと帰還した。
善良な一般人に擬態するための、不可欠な労働。
“トリプルフェイス”を使い分ける身にとって、このスイッチの切り替えは、もはや呼吸に近いルーティンとなっていた。
「あ、安室さ〜ん! しばらくお休みでしたね。旅行、楽しめました?」
看板娘の弾んだ声が、静まり返っていた僕の日常を塗り替えていく。
「ええ、おかげさまで。僕がいない間、負担をかけてしまって本当に申し訳ありません。……実は、帰りの便が予定外に慌ただしくなってしまって。お土産を選ぶ余裕もなかったんです」
「まあ! いいんですよ、そんなの。安室さんがリフレッシュできたなら、それが一番ですから!」
「すみません……その分、今日からは心機一転、しっかり働かせていただきますね」
死線を彷徨うような潜入捜査の真っ只中だった、などと言えるはずもない。
それらしい「もっともな嘘」を笑顔という糊で塗り固め、鮮やかに現実を凌いでみせた。
「あ! それと安室さん、さっきお店に電話が入ったんですよ。『今日の予約をしたい』って」
「そうですか。でも、ポアロは予約制じゃないとお伝えしたでしょう?」
「そうそう。だから、それはできないんですって言ったら、向こうもすぐに納得してくれたんですけど。……最後に、『沖矢』という名前を安室さんに伝えてほしいって」
「……沖矢」
その名が耳に触れた瞬間、脳内の回路が一気に熱を帯びた。
指先に残っていた穏やかな日常の感覚が、急速に剥がれ落ちていく。
「それだけ言って、電話を切っちゃったんですけど……。安室さん? もしかして、お知り合いでしたか?」
「ええ、まあ。何度かお越しいただいていますから。……少し、癖のあるお客様ですよ」
頬の筋肉をミリ単位で制御し、完璧な営業用の笑みを維持してみせた。
だが、内側では怒涛のような罵詈雑言が渦を巻いている。
――全てを察した。
わざわざ梓さんを介して、表の顔である僕を指名してくるその傲慢さ。
随分と僕を適当に扱うじゃないか。赤井秀一。
あんな男のどこに、愛嬌などという欠片が転がっているというのか。
***
カラン、と乾いたドアベルの音が、午後のまどろみを切り裂いた。
西日に透ける灰褐色の髪。眼鏡の奥に隠された、糸のように細められた双眸。
そこにあるのは、どこまでも温厚で、どこまでも「無害」な大学院生の皮だ。
「いらっしゃいませ。――おや、沖矢さん。先ほどはわざわざお電話をいただいたそうで」
「ええ、安室さん。少し、お耳に入れたい新メニューがありましてね」
沖矢は事もなげに言い、カウンターの端、梓さんの目が届きにくい死角へと滑り込んだ。
僕は淀みない動作で氷を砕き、彼が好むブラックコーヒーを準備する。その所作の一つひとつに、僕は「安室透」としての完璧なホスピタリティを込めた。
コースターを差し出す際、指先がわずかに触れる。
その刹那、僕の手のひらには冷たい金属の感触が残った。小指の先ほどの小さなUSBメモリ。
彼はそれを、まるで角砂糖でも渡すような気軽さで、僕の日常に放り込んできたのだ。
「……恐縮です。お口に合うといいのですが」
「あなたの淹れるものは、いつも期待を裏切らない」
低い、どこか中立的な響き。だが、その声の深層には、あの男特有の「重力」が潜んでいる。
機密情報の受け渡しという、本来なら心臓を抉るような緊張感を伴うはずの行為。
それが、この琥珀色の空間では、あまりに緩慢に、ぬるま湯のような温度で溶けていく。
僕はポケットにその「毒」を仕舞い込み、ふと、少年との会話を思い出した。
「そういえば。貴方の知り合いの少年から伺いましたよ。沖矢さんは、ご自身でよく料理をされるとか」
僕の問いに、沖矢の肩がわずかに揺れた。
「ええ。独り身が長いものですから、生きるための手段が、いつの間にか道楽になりまして」
「肉じゃががお得意だとか。煮込み料理は火加減が難しいでしょう。……根気が必要な作業は、あなたの性格に合っているのかもしれませんね」
嫌味を込めた。
執念深く、獲物を待ち続けるあの男の性質をなぞったつもりだった。
ところが、返ってきたのは意外な反応だった。
「……あれは、試行錯誤の連続ですよ。火を止めるタイミング一つで、ジャガイモの表情が変わる。それが上手くいった日は、どうにも……少しばかり、胸が躍る」
語るにつれ、彼の声の輪郭がわずかに、本当にわずかに熱を帯びた。
普段の彼が「理論」という鎧で武装しているのだとすれば、今の声は、その隙間からこぼれ落ちた、加工されていない生身の響きだ。
まるで、新しい玩具を手に入れた子供が、その仕組みを自慢したくてたまらない――そんな、隠しきれない高揚。
「……素晴らしいですね。料理に対してそれほど真摯に向き合えるのは、一つの才能ですよ。純粋に、尊敬します」
皮肉ではなく、同業者としての、あるいは一人の男としての、嘘偽りない称賛。
それを投げかけた瞬間だった。
「――……。……あ、……ありがとうございます」
沖矢が、言葉を詰まらせた。
流暢な弁舌で世界を欺く男が、たった一言の「褒め言葉」に、まるで未知の言語を突きつけられた異邦人のように、ぎこちなく固まっている。
伏せられた睫毛が震え、首筋にわずかな戸惑いが走る。
ああ、そうか。
この男は、命を懸けたチェスボードの上で「有能」であることは求められても、その営みを「愛おしい」と肯定されることには、ひどく無縁な人生を送ってきたのだ。
鉄の規律と、硝煙の匂い。
そんな場所でしか呼吸できなかった男が見せた、あまりに不器用な、拒絶の仕方も知らない「肯定への戸惑い」。
「……ふっ」
耐えきれず、小さな笑いがこぼれた。
胃を焼くような憎しみでも、焦燥でもない。ただ、心の端がふいにつつかれたような、奇妙な可笑しさ。
「安室さん?」
「いえ。……意外だったものですから。あなたのような方でも、そんな顔をなさるのだな、と」
癪だ。猛烈に、癪だ。
あの少年の言葉を、今の僕は、あまりに鮮明に理解してしまっている。
威圧感ばかりが無駄に育ち、正義という名の業を背負った男。
その男が、たかが肉じゃがを褒められた程度で、こんなにも「剥き出し」になる。
――可愛い、だと?
認めざるを得ない。
この、喉の奥を滑り落ちる甘すぎるシロップのような、春先に降り注ぐ微睡みのような、どうしようもなく複雑で、心地よい完敗の感覚。
あいつが、可愛いと言われていた。
……正気か、と疑った自分を、今すぐ捨ててしまいたいくらいには。
「沖矢さん。今度、その肉じゃがの隠し味……僕にも、教えていただけますか?」
「おや。安室さんのレシピを奪ってしまうかもしれませんが、よろしいのですか?」
「ええ。構いませんよ。――勉強させていただきますから」
夕闇が迫るポアロの店内で、僕は自分でも驚くほど、穏やかな声でそう告げた。
ポケットの中のUSBメモリが、体温を吸って少しだけ温かくなっていた。






