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別に、入籍したからって、いますぐになにかが変わるわけではないのだが。
仕事をするのは変わらない。あくまで平常通り。普段通り、会社用の仮面を身に着けたまま、職務を遂行する。
裏でどんなセックスをしているのか。どんなプレイに興じているのかを一切出さず。――そう。レイプ前に着けていたのと変わらぬ仮面を装着する。世界平和のために。自分の安全を確保するために。
尤も、課長と結ばれてからは、自分でも感情豊かになったとは感じているが。――また、高嶺と出会ったことによっても。
手続きには勿論追われている。銀行口座、保険証、免許証の氏名変更……。まあ免許証は身分証明にしか使わないけれど、なにかのときに必要だから。あと住民票もね。
でも、そんなものは、課長と大きな流れに乗るための、ひとつのプロセスであって。終わらせればいいだけの話。終われば別にまた……平穏な日常が待っている。
課長のマンションで過ごす日常も変わらず。――でも、『入籍した』という事実が自分をこんなにも幸せにするだなんて、わたしは知りもしなかった。たった四文字の呪縛。『三田莉子』になれたというあまい呪いをかけられただけで、女はこんなにも満たされうる。――愛という呪いを。結婚という呪縛を。
「ただいま……」
「おかえりなさい」
食事を作る手を止め、洗面所で手を洗うあなたの背にそっとしがみつく。「……会いたかった」
「毎日会えてるのにな」課長は、鏡越しに、わたしの目を覗き込む。「毎日、顔を合わせているのに、どうしてきみが……足りないんだろう。不思議だね」
「会社だとこんなことを出来ないからじゃない?」かちゃかちゃと、わたしは課長のベルトに手をかけ、既に主張を始めているそれを剥き出しにする。「ああ……こんなおっきしちゃって。……ねえ、いつからこんなになっていたの?」
「……エレベーターに乗った辺りから……」わたしにまさぐられるがゆえに、課長の声はうわずる。豆粒のようなそこをやさしいタッチで刺激してやる。「帰ったら……エプロン姿の莉子がいるんだな、って思うだけで……欲情してしまってな……」
わたしは課長のからだを回転させ、ワイシャツを脱がせると、インナーもまくりあげ、それから――舐めてやる。
しょっぱい味がする。でもなんだか美味しい。――わたし、いつもこの男に満たされている。抱かれるのも、他の誰でもない、あなただけがいいの。あなた以外の男になんか興味がない。
「ああ……ああ、ああ……莉子。莉子……激しい……」
わたしがきつくあなたの胸の頂きに吸い付いてやり、かつ、右手であなたのペニスを刺激してやれば、あなたはそんなふうに言うけれど。わたしには分かっている。
「そんなこと言って……好きなくせに」
わたしは跪き、静謐な宝物に触れるかのように、あなたのそこにむしゃぶりつく。――強い目線を感じる。あなたの、わたしの頭に添えるぬくもりを感じながら、あなたのことを導いてやる。
根元をしっかり持って、口で頬張り、スライドさせてやる。それを繰り返しているうちに、おかしなことに、わたしの胸の奥から、情欲が湧いてくる。噴き出す泉のように、その勢いは留まることを知らない。
あなたとひとつになると、見たことのない世界を知る。感じたことのない境地。あなたとでなければ絶対に辿り着けない境地へと。……さよなら、ひとりきりで泣いていた自分。あの頃の自分も、大切な自分の一部なのだけれど。あの頃のわたしもきっとわたしのなかの大切な一部。膝を抱え、つめたいシャワーに打たれ続けている自己を有しながら、わたしは、見たことのない、鮮やかで新しい人生を、生きていく。
あなたがわたしのなかで果てると。わたしは――安堵を覚える。やっと、自分があるべき場所へと戻ってきたような感覚を知る。――何故、ひとは生まれたのか。ひとは、なんのために生きているのか。潜在的で根源的な欲求を、追い求める。
やわらかなベッドにからだを沈み込ませ、切々とあなたに求められる……。清らかで、あたたかいひととき。これを、幸せと呼ばずになんと呼ぶのか。生まれたばかりの赤子のように、あなたの表現する愛に、酔いしれる。
「遼一さん……だめ、わたし、また……っ」
しっかりと指を絡ませる。あなたの舌で指で――数え切れぬほどの絶頂を迎え、絶えず、到達し続けたままで、狂ってしまいそう。こらえきれずあふれるなみだを、あなたのあたたかい舌がすくってくれる。――ああ。
「ああ……遼一さん。遼一さん……愛している……」
わたしのなかであなたは音楽を奏でる。愛という音楽を。例えようのない響きを。淫らに狂わせ、一定のリズムで打ち付け、わたしのなかを安堵と愛情でいっぱいにしてくれる。あなたに求められているからわたしは――生きていける。
たとえ、あなたがわたしより先に死んでしまうことがあっても――あなたの残してくれた愛があるからわたしは生きていける。
仮に、わたしがあなたより先に死んでしまったとしても……あなたには、このあふれんばかりの愛を、残しておきたい。
後悔なんか、したくない。そんなものをするためにわたしたちは生きているのではない。ひたすら――暴力的なまでに愛を追い求める、そんな人間がいてもいいのではないか。課長との情欲の果てに、わたしはいつしか、そんな結論を見出していた。
* * *
「……課長」
「なぁに」
「好き」
「知ってる……」
「ねえ課長」とわたしは彼に抱きつき、「あんなに……ついこのあいだまで迷いのなかにいたのに、目の前の霧がすっかり晴れた感覚よわたし。……あなたが、わたしを認めてくれたことで……考える時間をくれたことで、わたしのなかで、答えが出たの。
やっぱり、……高嶺に対する感情は友情そのもので。あなたに対する感情とは別物。
セックスが理由なんじゃなくて。……そうね。死ぬまで一緒にいたい相手はやっぱり……あなただけ、って思うの。
セックスって、死を伴う行為だから。セックスをするたびに、わたしは、死に近づいていくの。単に、寿命に迫る、それだけが理由じゃなくて……本来は、命を生み出す、尊い行為だから」
勿論、避妊をしていないことも関係しているだろう。
「……ん」わたしの髪を撫でる課長は、こういうとき、わたしに喋らせると決めている。わたしはその意志にあまえ、
「どうしてだろう。……幸せなのに。こんなにも幸せなのに。考えてしまうの。自分の生きてきた意味がなんなのかって……なんのためにわたしは生まれてきたのかな、って。
課長に抱かれると――幸せだな、と思って。こんなにも愛されることが。求められることが。
その一方で、ぐるぐると疑問の渦巻く自分もいるの。……愛の欲に溺れていいのかな、って。性欲狂いになるためじゃない、ちゃんと……課長のことも見て、課長のことを知らないと駄目だなって……」
「生きている限り、答えの見つからない問いなのかもしれないな」と課長。「おれも……同じことを考えているよ。不思議だな。入籍してから、急に気持ちが切り替わってさ。ただの紙切れ一枚を出しただけだというのに、おれもちょうど……同じことを考えていたんだ。
自分が、いったいなんのために生まれてきたのか。
愛されない人間なら、生きていく意味がないのか――そんなエゴの持ち主でいいのか? とかな」
「課長……。でも、わたし。わたしの教授が、あることを言っていました。
『Nobody is alone.』水を飲み、物を食す限り、わたしたちはひとりではない。――ひとひとりが生きていくのに、社会の人間たちがどれだけ努力をしているのか? このコップの水いっぱいを飲むためだけに、どれだけの人間が尽力しているのか? 水道局の人間。役所の人間。道路を整備する人間。
生きているだけで、知らず知らずのうちに。知らないうちに、わたしたちは、たくさんの人間の愛を、受け取っているんです。だから、絶対に自殺なんかしちゃ……いけないんです」
「もし、これから先も苦しむことがあったら、ひとりで悩まないで。おれが、力になるから。紅城くんに話すのだっていい。みんなきみの味方だ……そのことを忘れないで」
「課長……」何故か流れるわたしの涙を拭う課長は、「課長も同じですよ? ひとりで悩むのは絶対に駄目です。わたしたち……夫婦なんですから。これからは一緒に悩みましょう……」
そうして、また互いのぬくもりに溺れる。唯一無二のひととき。二度と訪れないこの瞬間を、宝物として織り上げていく。行為のさなか。
わたしは、自分の存在価値を見出す。なんのために――誰のために生まれてきたのか。
分からないなら、それでもいい。このために生まれてきたのか。分からないまでも、分からないまま、生きていく。それもまた人生というものの醍醐味なのだろう。
あなたに抱かれると、わけが分からなくなって、ただ、溺れてしまう。そんなわたしをいつもやさしく受け止めてくれるあなたの包容力にただ、あまえた。
*