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羞恥心で死にそう
国立異能学園の朝は、特権階級の子弟たちが放つ、傲慢なまでの活気に満ちている。 白亜の校舎、手入れの行き届いた庭園、そして廊下を行き交う生徒たちの制服は、どれもが「選ばれた者」であることを証明する輝きを放っていた。中原中也は、その頂点に君臨する存在だ。彼が登校するだけで、校門から教室に至るまで、目に見えないレッドカーペットが敷かれたかのような静寂と、直後の熱狂が広がる。
だが、今朝の中也の足取りは、いつになく重かった。 数日前の晩餐会。あの薄暗い柱の陰で、幽霊のように佇んでいた少年の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。 「治」と呼ばれていた、あの太宰家の「無能」。 中也は、自らの立場を利用して、太宰家の系譜を調べさせた。そこで知ったのは、かつて「静の要」と呼ばれた太宰家の正統な後継者が、現在の叔父の代になってから、家の中でも、そしてこの学園の中でも「透明人間」として扱われているという事実だった。
(……あのガキ、この学校にいやがんのか)
中也は、自分の通う学園の広大さを呪った。数千人の生徒がいれば、一人の「影」を見過ごすことなど容易い。だが、一度意識してしまえば、学園の至る所に落ちている「影」のどれかが、あの少年ではないかと探してしまう自分がいた。
「中也様、おはようございます! 本日の演習ですが……」
取り巻きの生徒たちが、媚びを含んだ声で群がってくる。 中也はそれを鼻で笑ってあしらいながら、ふと、旧校舎へと続く渡り廊下の隅に、見覚えのある「色彩の欠落」を見つけた。
それは、華やかな学園の風景の中で、そこだけがモノクロームに塗り潰されたような異質な空間だった。 他の生徒たちが避けるように歩くその場所で、一人の少年が、山のような資料を抱えて壁際を歩いている。 継ぎ接ぎだらけの古い制服。猫背気味の細い背中。そして、周囲の嘲笑や罵声を、文字通り「聞こえていない」かのように受け流す、あの無機質な横顔。
(――太宰)
中也の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。 それは、獲物を見つけた獣の昂ぶりでも、恋心でもない。ただ、自分の平穏な日常に、決して相容れないはずの「絶望」が混入したことへの、激しい拒絶と好奇心が混ざり合った衝動だった。
中也は、自分を囲んでいた生徒たちを強引にかき分け、迷いのない足取りでその影へと向かった。
「おい、中也様がどこへ……?」
「あいつ、太宰家の無能じゃないか。あんなゴミに何の用が……」
背後で囁かれる不謹慎な声を、中也は重力の一瞥で黙らせる。
太宰治は、自分の背後に「太陽」が近づいていることに、まだ気づいていないようだった。 彼は、信治たちに押し付けられたのであろう、重い古い魔導書や資料の束を抱え、ただ黙々と、埃っぽい旧校舎へと足を運んでいる。
中也は、数歩手前で声をかけた。 「おい。太宰」
その瞬間、太宰の肩が、目に見えるほど大きく震えた。 彼は、その場に縫い付けられたかのように硬直し、数秒の間をおいて、ゆっくりと、錆びついた機械のような動作で振り返った。
逆光の中に立つ、中原中也。 帝都最強の男が、自分のような日陰者に、全校生徒の面前で声をかけている。 太宰の茶色の瞳に、晩餐会の時以上の「恐怖」が走った。 それは、暴力を恐れる者の目ではない。自分の静かな地獄を、土足で踏み荒らされることを恐れる、絶滅寸前の野生動物の目だった。
「…………な、かはら……さま」
太宰の唇が、震えながらその名を形作った。 声は、風に消えてしまいそうなほど細かった。
「お前、こんなところで何してんだ。その荷物はどうした」 中也は、努めて平坦な声を意識したが、その眼光の鋭さまでは隠せなかった。 彼は、太宰が抱えている資料の束が、彼の細い腕にはあまりに重すぎること、そしてその指先が、寒さと重圧で青白く変色していることに、苛立ちを覚えた。
太宰は、答えなかった。 否、答えることができなかった。 周囲の生徒たちの視線が、まるで鋭い針のように自分の全身に突き刺さっている。
(どうして。どうして、この人は私に関わるの?)
(私はゴミだ。私は無能だ。関われば、この人の輝きまで汚してしまう)
(見ないで。私に、構わないで――)
太宰の脳裏には、叔父や信治から毎日浴びせられる呪詛が、濁流のように溢れ出していた。 『中原様の視界に一瞬でも入ってみろ。その時は、お前のその細い首をへし折ってやる』 叔父の歪んだ笑顔が、中也の背後に重なって見える。
中也は、太宰が何も言わずに自分を見つめていることに、さらに焦れったさを感じた。
「おい、聞いてんのか。……それ、貸せ。俺が持ってやる」
中也が、無造作に手を伸ばした。 彼にとっては、ただの「親切」のつもりだったのかもしれない。あるいは、あの細い腕が折れてしまうのではないかという、純粋な危惧だったのかもしれない。
だが、太宰にとって、その手は「死の宣告」に等しかった。
中也の指先が、太宰の抱える資料の端に触れようとした、その刹那。
「――ひっ……!」
太宰の口から、悲鳴にも似た短い呼気が漏れた。
ガシャ、と重い音を立てて、抱えていた資料が床に散らばる。 太宰は、散らばった本を拾おうともせず、ただ、中也の手から逃れるように大きく後ずさりした。 その瞳は、もはや光を失っていた。ただの、剥き出しの「拒絶」。
「……太宰?」
中也の手が、虚空で止まる。
太宰は、中也の顔を一度だけ、絶望に満ちた目で見つめると――。 次の瞬間、脱兎のごとく、旧校舎の奥へと駆け出した。
「おい! 待てよ、太宰!」
中也の呼びかけも虚しく、太宰の細い背中は、迷路のような廊下の曲がり角へと消えていった。 後に残されたのは、床に散乱した古い資料と、呆然と立ち尽くす中原中也。 そして、その光景を遠巻きに眺めていた生徒たちの、嘲笑と困惑の混じったざわめきだけだった。
中也は、地面に落ちた一冊の本を拾い上げた。 『無効化異能の理論と実践』。 表紙は擦り切れ、ページには治の自筆と思われる、細かく、しかし整った文字で注釈が書き込まれている。
「……無能、だと?」
中也は、その注釈の深さに、舌を巻いた。 ここにある考察は、学園の教師ですら到達できないような、異能の本質を突いたものばかりだった。 あの少年は、自分を「無能」と偽り、あるいは信じ込まされながら、独りでこの深淵を覗き込み続けていたのだ。
中也は、本を強く握りしめた。
「……逃げんじゃねぇよ。俺は、お前を食おうってんじゃねぇ」
だが、中也には分かっていた。 あの太宰治という少年は、自分という「光」を恐れている。 光が強ければ強いほど、その影は濃くなる。 自分が彼に近づけば近づくほど、彼は自分の影に押し潰され、窒息してしまうのだ。
その日の午後。 太宰治は、学園の医務室の裏にある、古びた倉庫の隅で、膝を抱えて震えていた。 逃げ出した。 あの中原中也様から、無礼にも、言葉も返さずに逃げ出してしまった。 もしこれが叔父の耳に入れば。もし信治がこれを知れば。
(殺される。……いや、殺されるなら、まだいい)
(また、あの冷たい蔵に閉じ込められる。今度は、二度と出してもらえないかもしれない)
太宰は、自分の震える手を見つめた。 中也の手が触れようとした場所が、今でも熱を持っているように感じられる。 あんなに強くて、温かそうな手。 自分のような、氷の下で生きる魚には、その熱は致死量だった。
「……助けて……」
誰にも届かない声で、太宰は呟いた。 だが、誰に助けてほしいのか、彼自身にも分からなかった。 自分を虐げる家からか。 それとも、自分を「見つけて」しまった、あの中原中也という太陽からか。
一方、中也は生徒会室の椅子に深く沈み込み、窓の外を眺めていた。 手元には、先ほど拾った太宰の本が。
「中也様、次の授業の準備が……」
「……あいつ、どこにいる」
「はい?」
「太宰だ。あのガキ、どこに隠れてやがる。……異能で探しても、あいつの周りだけ反応がねぇんだよ」
中也の焦りは、頂点に達していた。 自らの重力操作を以てすれば、学園内の生物の配置など、手に取るように分かる。 だが、太宰治がいる場所だけは、まるで地図に穴が開いたかのように、情報が遮断されるのだ。 「無効化」の力。 それは、中也という絶対的な強者の「支配」が及ばない、唯一の聖域だった。
(……面白いじゃねぇか。俺から逃げ通せると思ってるのか)
中也の中に、新たな感情が芽生え始めていた。 それは、弱者への同情でも、貴族としての義務感でもない。 自分の力が唯一通用しない「空白」を、力ずくでこじ開け、その中にある「真実」を暴き出したいという、異能者としての本能的な渇望。 そして、あの死んだような瞳の中に、自分という存在を刻み込みたいという、傲慢なまでの独占欲。
「……見つけ出してやるよ、太宰。お前がどんなに影に隠れても、俺がその影ごと引きずり出してやる」
中也は、不敵な笑みを浮かべた。 だが、その笑みの裏には、自分でも気づかないほどの、切実な「寂寥」が混じっていた。 自分と同じように、誰とも分かち合えない「孤独な力」を持つ少年。 その少年を、このままドブの中で腐らせておくことなど、自分という「力」が許さなかった。
その夜、太宰家。 学園から戻った太宰を待っていたのは、信治による執拗な追及だった。
「おい、治。今日、中也様とお前が話をしていたという噂を聞いたぞ。……お前、中也様に何を言った? 何か、余計なことを喋ったんじゃないだろうな!」
信治が、治の胸ぐらを掴み、壁に叩きつける。
「……何も、喋っていません。……逃げ出しただけです」
治は、力なく答えた。
「逃げ出した!? あの大貴族の中原様を前にして、逃げ出しただと!? お前は、どれだけ我が家の顔に泥を塗れば気が済むんだ!」
信治の拳が、治の腹部に沈む。
「……うっ……!」
治は床に崩れ落ちた。 だが、彼は声を上げない。涙も流さない。 ただ、中也が拾ってくれたであろう、あの本のことを考えていた。
(……あの本は、もう戻ってこないだろうな)
(私の唯一の、逃げ場所だったのに)
叔父の正治が、部屋の隅から冷ややかに告げた。
「……まあいい。中原様が、あれほどまでに治に執着されるとは、予想外だが好都合だ。……信治、もうその辺にしておけ。道具に傷がつきすぎると、値打ちが下がる」
正治は、治の髪を乱暴に掴み上げ、その虚ろな瞳を覗き込んだ。
「治。明日、お前を中原家の屋敷へ届けることにした。……名目は『異能制御の実験体』だ。中原様には、お前のその『無効化』の力を存分に差し上げる。……お前はそこで、中原様の機嫌を損ねないよう、ただの『物』として振る舞え。……分かったな?」
治の心臓が、冷たく凍りついた。 中原家。あの中原中也様がいる、光の宮殿。 そこへ、自分のような影が足を踏み入れる。 それは、救済などではない。 自分という存在が、光によって完全に消滅させられることを意味していた。
「……はい。……叔父上」
治は、静かに目を閉じた。 逃げ場は、もうどこにもない。 学園の廊下で自分を呼び止めた、あの青い瞳。 明日からは、あの瞳の持ち主が、自分の「飼い主」になるのだ。
帝都の夜は、静かに、しかし確実に、破滅と転生へと向かって更けていく。 中也は、自室のテラスで、太宰の本を片手に、遠く太宰家の方角を見つめていた。 太宰は、暗い物置の中で、明日訪れるであろう「終わり」を待っていた。
二人の距離は、明日、劇的に縮まることになる。 それが、泥沼への沈下なのか、あるいは天国への飛翔なのか。 まだ誰も、その答えを知る由はなかった。
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