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自分のネーミングセンスが憎い
帝都の北端に位置する中原家の本邸は、その主の気質を体現するように、質実剛健でありながら圧倒的な威容を誇っていた。鉄黒の門をくぐり、広大な敷地を抜けた先にある石造りの館。そこは、帝都の平和を一身に背負う「重力の主」が、唯一羽を休める聖域であるはずだった。
だがその日、エントランスに横付けされた太宰家の古びた車から降り立ったのは、その聖域を侵食するような、どす黒い「虚無」を纏った少年だった。
太宰治は、叔父の正治に背中を強く押され、一歩、また一歩と中原家の敷居を跨いだ。
彼の瞳は、もはや光の一片も宿していない。学園で見せたあの「逃亡」の意志さえも、昨夜の折檻と叔父の呪詛によって、粉々に砕け散っていた。
(……私は、道具。私は、異能を鎮めるための、ただの器)
自分にそう言い聞かせることで、彼は心の脈動を止めていた。そうでなければ、この豪華すぎる館の空気に押し潰されて死んでしまうと思ったからだ。
「中原様、お約束通り、我が家の『治』を連れて参りました。どうぞ、存分にお使いください。こいつは痛みにも鈍く、声も上げぬ出来損ないですので、いかなる実験の犠牲になろうとも、太宰家は一切の異議を唱えません」
正治の卑屈な笑い声が、高い天井に反響する。
出迎えた中原家の執事や使用人たちは、そのあまりに非人道的な「譲渡」の言葉に、一様に顔を強張らせた。だが、その場の空気を一瞬で凍りつかせたのは、大階段の上から響いた、低く、重厚な足音だった。
「――随分な言い草じゃねぇか、太宰」
中原中也が、階段を降りてきた。
軍服のボタンを外し、苛立ちを隠そうともしないその姿は、荒ぶる神そのものの威圧感を放っている。
中也の視線は、揉み手をする正治をゴミを見るような目で見過ごし、その斜め後ろで、まるで死体のように立ち尽くしている治へと向けられた。
治は、中也が近づいてくる気配を感じても、顔を上げなかった。
彼は、ただ一点、自分の汚れた靴先を見つめ続けている。
あの日、学校で自分を呼び止めたあの男。
自分から本を拾い上げ、あんなに熱い目で自分を見た男。
(……他人のフリ。そう、私はあの時の私ではない。私はただの、太宰家から贈られた『備品』だ)
「おい、治。挨拶もしないのか! この無礼者が!」
正治が治の細い肩を掴み、中也の前に引きずり出した。
治は人形のように操られ、中也の足元で深々と頭を下げた。
「……太宰家より参りました。本日から、中原様のお役に立つよう、精一杯務めさせていただきます」
その声を聞いた瞬間、中也の眉間に深い皺が寄った。
冷たい。
学園で逃げ出した時のあの必死な拒絶すら消え、そこにあるのは、完全に魂を抜き取られた「抜け殻」の響きだった。
「……治」
中也が、その名を呼ぶ。
「…………」
治は答えない。ただ、無機質な沈黙を返す。
「顔を上げろ、治。俺の目を見ろ」
中也の命令は絶対だった。
治は、震える睫毛を押し上げ、ゆっくりと中也と視線を合わせた。
だが、その瞳に映っているのは、中原中也という人間ではない。ただの「主人」という概念を映し出しているだけの、濁った硝子玉だった。
「……初めまして、中原中也様。以後、お見知りおきを」
「――初めましてだと?」
中也の声が、怒りに震えた。
「ふざけんじゃねぇぞ、手前。学園でのことも、晩餐会でのことも、全部なかったことにしてぇのか」
治は、微かに小首を傾げた。その動作さえも、計算されたかのように感情が欠落している。
「……失礼ながら、中原様のような高貴な方とお会いした記憶はございません。私はただの、太宰家の無能でございますから。……何か、人違いをされているのでは?」
徹底した「他人のフリ」。
治は、中也と関わることを、魂のレベルで拒絶していた。
関われば、中也という太陽に、自分の醜い痣も、腐った中身も、全て暴かれてしまう。
それだけは、死んでも嫌だった。
自分は、ドブの中で死んでいく権利がある。それを、この男に奪わせるわけにはいかない。
中也は、治のその「静かな拒絶」に、これまで感じたことのないほどの激しい独占欲と、守護欲を掻き立てられた。
「……面白いじゃねぇか。なら、今日からじっくり思い出させてやるよ」
中也は正治に向き直ると、懐から一通の書類を取り出し、それを彼の顔面に叩きつけた。
「――金だ。太宰家への『支援金』という名目だが、事実上、こいつの身受け代だ。今すぐその薄汚ねぇ車で立ち去れ。二度と、このガキの前に顔を見せるな」
正治は、書類に記された天文学的な数字を見て、目を剥いた。
「は、ははっ! さすが中原様! この治、どうぞお好きに! 殺しても構いませんぞ!」
正治は、札束に目が眩んだ獣のように笑い、治を一瞥もすることなく、館を後にした。
静まり返ったエントランス。
残されたのは、圧倒的な力を持つ主人と、その主人を「赤の他人」として拒絶し続ける、ボロボロの少年だけだった。
「……さて。治」
中也が、一歩、歩み寄る。
治は反射的に、一歩、後退した。
「……何か、ご命令を。掃除でしょうか。それとも、異能の実験でしょうか。……服を脱げとおっしゃるなら、それも――」
「黙れッ!!」
中也の怒声が響き、エントランスのシャンデリアが激しく揺れた。
中也は、治の手首を強引に掴み、彼を自分の目の前まで引き寄せた。
「誰がそんなことを言った! 実験だの掃除だの……俺が、そんなことのためにお前をここへ呼んだと思ってんのか!」
「……分かりません。私は、道具ですから」
治の瞳が、初めて微かに揺れた。中也の怒りの熱が、冷え切った彼の心に、火傷のような痛みをもたらしたからだ。
「……中原様。どうか、他の方と同じように、私を扱ってください。……優しくしないでください。……期待させないでください。私には、お返しできるものなんて、何もないんです」
治の声が、最後の方は消え入るような悲鳴に変わった。
彼は、中也の「善意」を恐れていた。
今まで誰もくれなかった温もり。それを一度知ってしまえば、それが奪われた時、自分は本当に死んでしまう。
だから、最初から「他人」でいたかった。
自分を殴り、蔑む叔父たちの方が、よほど「安全」だったのだ。
中也は、治のそのあまりに歪んだ防衛本能に、胸を締め付けられるような痛みを感じた。
「……返してほしいもんなんて、ねぇよ。……俺が、勝手にやってることだ」
中也は、掴んでいた治の手を離さず、そのまま自分の胸へと引き寄せた。正面から、逃げ場を塞ぐようにして、治を抱き寄せた。
「…………中原……さま……離して……」
治は、中也の胸を弱々しく押し返した。
だが、中也の腕は、鉄の鎖のように強固だった。
「離さねぇ。……お前が俺を『他人』だって言い張るなら、俺が何度でも、お前の世界に踏み込んでやる。……お前のその『無効化』の力で、俺を消してみろよ。……できねぇだろ?」
治の力は、物理的な抱擁までは消せない。
中也の強い心拍。服越しに伝わる、恐ろしいほどの体温。
治は、その熱に溶かされていくような感覚に襲われ、絶望に目を閉じた。
「……あんな人……大嫌いだ」
治の口から、初めて「フリ」ではない本音が漏れた。
「……私を、放っておいてくれない……。あんなに眩しくて、温かくて……。……ずるいよ」
治の瞳から、一筋の涙がこぼれ、中也の軍服を濡らした。
それは、拒絶という名の、最高の「受容」だった。
「ああ、嫌いでいいぜ。……一生かけて、俺のことを嫌い続けてろ。……その代わり、俺の隣でだ」
中也は、治の細い身体を壊さないように、しかし決して離さないという意志を込めて、深く、深く抱きしめた。
その日から、太宰治の中原家での生活が始まった。
だが、彼はまだ、中也を「中也」と呼ぶことを拒んでいた。
食事を共にし、同じ屋根の下で眠り、中也がどれほど贅を尽くして彼を慈しもうとしても、治は常に「主人と下男」という冷たい壁を築き続けた。
中也が贈った最高級の絹の寝着を、治は「勿体ない」と言って身に付けず、隅で丸まって眠ろうとした。
中也が差し出した栄養のある食事を、治は「毒が入っているのではないか」と疑うのではなく、「自分のような者が食べては、食べ物が可哀想だ」と言って拒んだ。
中也の苛立ちは、日に日に募っていった。
だが、それは太宰に対する怒りではなく、彼をここまで壊してしまった世界への怒りだった。
ある日の午後。
中也は、自室のテラスで、学園から持ち帰った太宰の本を読んでいた。
そこには、治の繊細な考察が、びっしりと書き込まれている。
(……こいつは、こんなにも深く、世界を見てる。……なのに、自分だけを見てねぇ)
中也は、本を閉じ、庭園のベンチで虚空を見つめている治の姿を眺めた。
彼は、中原家の豪華な庭にあっても、まるで冬の枯れ木のように静止している。
中也は、テラスから飛び降り、重力をコントロールして治の隣に着地した。
治は、驚くこともなく、ただゆっくりと中也の方へ顔を向け、機械的に一礼した。
「……中原様。何か、ご用でしょうか」
「……あの日、お前が逃げた理由。……本当は分かってるんだ」
中也は、治の隣に腰掛けた。
「……私が逃げた? ……いつのことでしょうか。……やはり、人違いを――」
「黙って聞けよ」
中也は、治の冷たい手を、自分の大きな手で包み込んだ。
「……お前は、自分が傷つくのが怖いんじゃねぇ。……自分の『無』が、俺という『光』を汚すのが怖いんだろ。……そうだろ、治」
治の指先が、目に見えて震えた。
初めて、核心を突かれた。
治は、中也という完璧な存在に、自分という「不浄」が触れることを、冒涜だと感じていたのだ。
「……違います。……私はただ、身の程をわきまえているだけです」
「嘘をつけ。……お前は、俺に憧れてたんだ。……あの学園の校庭で、俺の訓練を、ずっと見てただろ」
治は、息を呑んだ。
気づかれていた。
校舎の物陰から、一度だけ、盗むように見ていたあの視線。
太陽のように輝く彼に、ほんの一瞬だけ心を奪われたあの瞬間を。
「……あ、あれは……」
「隠したって無駄だ。俺の異能は、視線すら重みとして感じるんだよ」
中也は、治の顔を自分の方へ向けさせた。
「……憧れたままでいろよ。……お前が俺を汚すなんて、百億年早ぇんだよ。……俺の光が、お前の闇を全部焼き払ってやる。……だから、他人のフリなんて、もうやめろ」
中也の真っ直ぐな言葉が、治の心の最深部にあった、最後の防壁を打ち砕いた。
治は、溢れ出す涙を堪えることができず、中也の腕の中で、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「……中也……中也、中也……っ!」
初めて呼ばれた、自分の名。
中也は、勝利を確信したような、しかし酷く切ない笑みを浮かべ、治の頭を優しく撫でた。
「ああ。……やっと、こっちを見たな。……治」
二人の距離は、ようやく「他人」という名の方程式を捨て、新しい関係へと踏み出した。
だが、それはまだ、恋というにはあまりに重く、愛というにはあまりに痛々しい、魂の救済の始まりに過ぎなかった。
中原家の屋敷に、初めて、春のような温かな風が吹き抜けた。
治は、中也の腕の中で、生まれて初めて「眠りたい」と思った。
明日も、明後日も、この男の隣で。
一方、その頃。
治を「売った」金で再興を企んでいた太宰家には、中原家からの「死の宣告」とも言える、非情な通知が届こうとしていた。
中也は、治を救うだけでなく、彼を苦しめた全てを灰にする準備を、とっくに終えていたのである。