テラーノベル
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僕は、独立国ではない。
総督の命令のままに動いて、総督以外は見ず、総督の為に心臓を動かす。
中枢神経から末梢神経まで総督の色に染められた傀儡。
双子の兄を殺して、連合国を殺して、世界を枢軸一色にするための殺戮人形。
繰り返し繰り返し言い聞かされ、言い聞かし、信じて、息を殺し、自我を殺した言葉たち。
けれどもどうしてだろう。あの時僕は命令を破った。
きっと、遥か昔に捨てた欲とやらがまだ残っていたのだ。
そしてそれが、それが残っているのがわかったのが、ただ、今だっただけだったのだ。
開け放した窓から入り込んだ重くじっとりとした雨の匂いと、先盛りのライラックの匂い。
雨が気だるげな拍手のように屋根を叩いていた。
嗅覚と聴覚に気を傾け、粗末なベッドに身を預けながら、ぼんやりと天井を見つめる。
やはり間違っていたのだ。嵐のような喝采なんて。僕にはこの雨のような拍手がお似合いだ。
僕のどこに欲が残っていたのだろう。
だが、今問うても答えは見つからない。
あの一瞬だけ、光が瞬いただけ。
今はもうない。
天井から目を逸らし、頭の脇に置いてある一輪の薔薇を見る。
ゆっくり撫でて、その感触を確かめる。
香りを嗅ごうと息を吸えど、入ってくるのは雨とライラックの匂い。
この薔薇からは、薔薇の香りがしなかった。
触覚に意識を傾ければ、筋があれど滑らかな花弁特有の手触りではなく、絹のような手触りと内の針金の感触がするのがわかる。
最初に触れた時からわかっていたが、改めて思った。
造花だ、と。
ため息をついて、体勢を変えて、優しく手で包み込む。
目を瞑って、ヴィシー・フランスは過去に耽った。
***********
「こんにちは、良い天気ですね」
突如話しかけられて、僕はびくりと肩を振るわせた。
声の主の顔を拝むため、素早く振り向く。
そして、思わず目を見開いた。
立っていたのは、軍服に身を包んだ憎き連合国の中枢の一人、イギリスであった。
素早く跳び下がり、相手の様子を伺う。
軍帽の鍔に隠れた下はどんな表情をしているのかはわからなかった。
こんな路地裏に、気配を隠し、顔だって隠していたのに、何故バレたのか。
『変装には、妙な化粧をするより包帯やガーゼで顔の一部を隠したほうが良い。そうすることで相手は”包帯をしていた”という事実しか思い出せなくなり、顔はあやふやになる』
そう言われて普段から片目を包帯で隠すように巻いている。念には念を入れて、軍服ではなく乞食のようなボロを纏っていたのに。
僕が何をしていたのかと言えば、総督に反抗的な地域の様子を調査しに来ていたのである。
真逆そこに、最大の敵と言っても過言ではないイギリスがいるなんて。
「はは、情報通り、随分無表情ですね。驚けば少しは表情が緩むと思ったのですが」
イギリスの口が三日月の形になる。
「いずれ連合国の土地になる場所です、私が居たって不思議ではないでしょう?
ああ、そんな不安そうな顔をしなくても結構ですよ、貴方の変装は中々上等でした。お陰様で見つけ出すのに随分と時間がかかりましたよ」
「……」
ペラペラとよく回る口だ。早く黙らせなければ。
ドン、と地面を蹴り、正面からイギリスに突っ込む。
先手必勝、速いものが生き残る。
そのまま体当たりすると見せかけ、足を払った。
風がうなり、狭い路地裏の壁スレスレに足の裏が擦る。
手応えはない。素早く頭上を見上げ、空中に身を躍らせる敵の姿を確認する。
相手はこちらに踵落としを喰らわせる気だ。もしくは、地面に押さえつけるつもりか。
そうはさせまいと回避の準備を整えた時、ふとイギリスの胸ポケットに入った一輪の薔薇に目が釘付けになった。
そんな事をしている暇はないのに。
だが、とうの昔に失った感情が、あれが欲しい、と囁く。
風を切る音。上から迫り来る、鋭い殺気。
死ぬ。
渾身の力を振り絞って薔薇から意識を退け、ギリギリ飛び退いた。
攻撃が掠ったらしい肩が悲鳴を上げる。
荒く息をついて、僕は威嚇する狼のようにイギリスを睨みつけた。
対するイギリスは、僕の殺気など何ともないようにパンパンと手についた埃を払い、悠々と立ち上がる。
軍帽から除く瞳が不気味に光っていた。
「おや……」
胡散臭く表情を曲げる。
「もしかして、コレが欲しいんですか?」
首を傾けながら薔薇を摘み出す。
香りを嗅ぐような動作が、硬い軍服と汚れた路地と反発して妙な絵を形作った。
戦闘とは全く違う思考が脳をよぎる。
殺戮機ではなく、芸術家的な
表情が、呼吸が、骨の軋みが、筋肉の緩み方が、全て____
全て、何だ?
命令と違う。総督の望むこととは違う。僕の望むこととは違う、恐ろしい、遥か彼方に消えた筈の、知らない自分がいた。今。
そのことに戦慄し、目を見開く。
疲れからではない汗が顔に吹き出た。
「違う……」
総督。総督。総督。総督。総督。総督、総督、総督、総督、総督、総督、総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督総督。
そう、僕は総督のための傀儡。決して、決して自分の感情を持ってはならない。
だから、今持った感情は、命令とは「違う」
異変に気づいたイギリスが目を細める。
「おや、そうでしたか…?」
気づいている。アイツは、僕が動揺していることに。そして多分、その理由にも。
殺さなければ。
僕は、僕が、嵐のような、拍手をもらえるように。総督に。
鉤十字と赤い瞳がこちらを見て褒めてくれるように。
目を見開いて、真っ直ぐにイギリスへと駆ける。
今度は確実に息の根を止めなければ。
イギリスを殺せば枢軸は有利になる。
風が顔にぶつかり、狭い路地に籠った匂いが吹き抜けた。
殺せ。
筋肉が躍動し、骨が一際強くなる。血液が高速で身体中を巡回し、酸素を取り込もうと肺が膨らむ。
僕が殺す気で放った一撃を、きっとイギリスは回避できない。
心臓のある位置に向かって手を突き出す。
その気になれば、国は素手で一国を殺せるのだ。例え傀儡国家でも。
風が唸る。
指先が何かを掴んだ。
きっとそれはイギリスの心臓。生暖かい血が顔にかかったのだから。
手の中のモノを見る。
かさりと乾いた音を立てたそれは、薔薇だった。
何故?
疑問を直ちに解決するためにイギリスを見ると、肩を抉られ苦しげに顔を歪める彼がいた。
かわせる筈のない一撃を交わしてみせたイギリスは、ドヤりと顔を歪めてこちらを睨んだ。
「油断していましたよ全く…想定していたよりも貴方は強かった。ふふ、今回はここで退散します」
逃がすものか。
そう思ったにも関わらず、体は動かなかった。
薔薇を握りしめて、一歩も動かない。動けない。
手の触覚が薔薇を調べていく。生花ではなく、造花。
酷く悲しい波が僕を覆った。
悲しい?
呼吸が荒くなる。何故、何故、何故、何故。
違う、こんなのは総督の命令ではない。僕の望みじゃない。
望み?
望みなんて、望みなんて、僕には____
頭がぐるぐるして、汗が滲む、運動しているわけではないのに肺は忙しく動いて、開いた口からは変な音を立てながら空気が出入りしていた。
憐れみの視線を向けられていたことにも気づかずに。
どうにか冷静さを取り戻した時には、路地裏には僕一人が立っていた。
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ただの、命令違反だ。
きっとこれから、僕は罰を受ける。それが性暴力なのか、身体暴力なのかはわからない。
そのうち、総督がこの部屋に入ってくる。
怒りと失望をあの血のような目に滾らせながら。
すると、僕のわずかに戻ってきた自我も、この造花も粉々に砕かれて焼却炉行きになるだろう。
どうせまた元に戻るのだ。
それまで、せめて。
感傷に浸れないだろうか。
造花の感触と、ライラックと雨の混じったじっとりした匂いを嗅ぎながら、雨を子守唄に、ヴィシーフランスは目を瞑った。
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