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簪店の軒下で、長身の軍服姿の男性が背筋を正して立っていた。
女性客ばかりの店内から、興味深げな視線がちらちらと将臣に向けられている。
(晴臣、遅い……! ここに長居するのは落ち着かん)
一旦場所を移そうとした、その時だった。
「将臣様」
名前を呼ばれ、将臣は目を丸くした。
「薫子さん……お買い物ですか?」
いつもと同じ笑みを浮かべた薫子がそこにいた。
「ええ。晴臣さんから頼まれましたの」
「……何を、ですか?」
「凪さんへの簪選び、ですわ」
(……そういうことか)
調子のいい弟の顔が浮かび、将臣はつい目を細めた。
「私、流行り物には自信がございますのよ?」
薫子が軽く首を傾げると、簪の先に付いた小玉真珠が上品な音を立てて揺れた。
その計算し尽くされた抜かりのない所作に、将臣は無意識に視線を逸らした。
(……簪は、他の女性の指南を受けるべきではない)
「お手間を取らせますので結構です。自分で選べますので」
「まあ……そうでしたの?」
「申し訳ございません」
将臣は軽く頭を下げると、一人で店内へと入っていった。
薫子は一瞬だけ表情を失い、冷たい目になる。しかし、ちらりと後方に視線を送る。
「……そろそろ、かしら?」
店の硝子に映る自分の姿を見つめ、乱れてもいない髪のほつれを丁寧に直した。そして、にこりと美しく微笑むと、躊躇なく店内へと入っていった。
その頃、凪と晴臣は並んで道を歩いていた。
「りんごがお得に買えたわ。色づきもいいし、きっと美味しいと思うの」
楽しそうに話が止まらない凪とは反対に、晴臣はどこかそわそわと落ち着かない。
(簪屋まで、あと少し……)
無邪気に笑いながら話す凪。
(この呑気な顔も、今だけ……。これでいいんだよな?)
なぜか胸が重く揺れ、晴臣は乱暴に頭を掻いた。
その拍子に、学生服の袖から覗いた腕の内側に、青い内出血が見えた。
「晴臣さん、そのあざ……どうしたの?」
凪は指差した。
晴臣が腕を軽く上げると、青紫のあざがはっきりと残っていた。
「どうせ……喧嘩だと思ってんだろ。これは柔道で出来ただけだ」
ふいっと顔を背ける。
「痛そうね。薬を塗ってあげるから、腕を出して」
「これくらいなんてことないっ! 日常茶飯事だよ」
「いいから。ほら、出して」
凪は晴臣の制止を聞かず、その腕をそっと取り、あざに優しく触れた。
傷ができた時の光景が、目の裏に映し出される。
──息を荒げ、真剣な表情で大柄な相手に挑む晴臣の姿。足をかけようとして相手の重さに身体がぐらつき、腕を強く打ち付けた瞬間、だった──
「……相手が予想より重かったのね。晴臣さん、諦めずに頑張ったわね」
凪は胸元から炎症止めの軟膏を取り出すと、あざにすうっと優しく塗り込んだ。
「……なんで分かんだよ? お前、何者なんだよ……っ」
「ふふ、初めて会った時、晴臣さんは私に似ていると思ったの。だから……気持ちが分かってしまうのかもしれません」
凪は少し眉を下げて、照れくさそうに微笑んだ。
晴臣はその顔に、思わず見入ってしまう。
「さあ、行きましょうか」
凪が簪屋へ続く道を歩き出した。
その背中を見つめていて、晴臣の胸が激しく痛んだ。
(俺は……凪さんに、何をしようとしてんだ……っ⁈)
晴臣は慌てて走り寄り、凪の腕を掴んだ。
「凪さん! 別の道から行こう!」
しかし、晴臣が引っ張るより先に、凪の足がピタリと止まった。
その瞳が、ある一点を凝視している。
晴臣が視線を追う──。
簪屋の店内から出てきた、長身の兄。そして、その隣で、弾けるような笑顔を向ける薫子の姿──。
その薫子の手には、細身の鼈甲に小さな金の蝶をあしらい、動くたびに揺れる華やかな簪。それを見ながら、嬉しそうに将臣へ話しかけている。
(──どう見ても、兄上が薫子さんに買い与えたようにしか見えない!)
はっと我に返り、晴臣は凪の顔を見た。
凪は顔色ひとつ変えず、ただじっとその光景を見つめていた。