全ての雨を絞り出してやせ細った雨雲はそそくさと西の果てへと立ち去って、代わりに現れた夕暮れは今宵の夢を伴って地上の騒動など気にもせず、黒の都ネリーグロッサに橙の輝きを惜しまず注いでいる。それでもなお黒の都は変わらず黒々しく、騒動が波立てた哀れな人の子らの千々に乱れる心を色彩の静寂で覆い、母のようにあやした。
ユカリたちは恐る恐る宿屋を覗くが、特に警戒心などは感じなかった。そこは騒動とは無縁な、被害のなかった宿屋だったが、ユカリたちは荒れた一日の終わりにやってきた余所者なのだ。騒動との関係を疑われてもおかしくはないだろう。そして実際に騒動に関係しているのだから拒まれても致し方ない、と三人は覚悟していた。しかしその心配は無用で、むしろユカリたちは宿屋の主にいたく心配された。この夜の神を崇める街ではさして珍しくもない巡礼者の一行だと思われているようで、せっかく遥々やって来た街が荒れていることを謝られさえし、やにわに哀れな娘たちのための部屋を用意してくれた。
三人は罪無き宗教都市を巻き込んでしまった罪悪感を秘めつつ一息つく。二つの寝台のそれぞれにユカリとレモニカが座り、ベルニージュは立ったまま壁にもたれかかっている。
そうして口数は少なかったもののとても長く困難に満ちた一日を振り返った。
結果としては、【邪視】と【祈雨】の元型文字を完成させ、レモニカを追って来たコドーズはこの街の警吏に捕縛され、しかし魔導書の衣をクオルに奪われた。
振り返りの最後にレモニカが口を開いた。「大変ご迷惑をお掛けしました」
「レモニカも反省会をするの?」ユカリは眉をしかめて首を振る。「コドーズのことをレモニカが謝る必要なんてないよ」
「しかしわたくしが招いた災いですわ」
「承知の上だよ」とユカリは言って微笑んでみせる。「それに前にも言ったけど、私が招いている災いの方が大きいと思う」
「間違いないね」ベルニージュが苦笑して同意する。「ユカリから逃げるなら今の内だよ、レモニカ」
レモニカは無言で首を振り、話はそれで終わった。
一通り確認を終えると言葉は出て来なくなったが、お互いが思っていること、感じていることは何となく察せられる。
街の黒さに反して部屋には特別に宗教的な意匠はなかった。霊を慰めるおまじないの彫られた古びた扉があり、厳かな街並みを映す趣のある窓があり、使い込まれた二つの寝台があるだけだ。一日の終わりの陽光は慎まし気に窓辺に佇むばかりなのに、冬の寒さは我が物顔で部屋の中へと押し入る。
ユカリの想像上の実母、焚書官の姿をしたレモニカの、鉄仮面でよく見えない目と目が合い、しかしレモニカの方が少し驚いた様子でユカリから顔をそらした。
しかしユカリの心はここになく、クオルの子のことを想う。どのような実験に使われたのか知る由もないが、亡くなってはいない、救済機構に奪われたとクオルは言っていた。沸々と滾る怒りは、しかしそれ以上に熱せられることなく、行き場もなかった。見知らぬ子供の心配を始めてはきりがない。
ユカリは壁にもたれているベルニージュをちらと見る。その赤い瞳もまたどこか遠く、あるいはどこにもない遠くを見つめているようだった。
魔導書の衣を奪われてしまった一番大きな原因は自分にあると考えているらしいベルニージュはすぐにクオルを追うことを提案したが、考えなしに飛び出しはなかった。
「落ち着く者は慌てる者より速い」と宿を探すことに決める前に言ったベルニージュの言葉は自分自身に向けられていた。
「何にせよ」とベルニージュが再び口を開く。「魔導書の衣を取り戻さなくてはならないね」
「そうだね。作戦会議しよう」とユカリは努めて明るく言い、レモニカは静かに頷く。
「でもやることは変わらないと思うんだ」とユカリは付け加え、さらに続ける。「禁忌文字を完成させれば魔導書の衣が光って、居場所が分かる。あの文字を完成させた時の光はとても、いや、とんでもなく強くなってるし、もう地平線の向こうからでも届くんじゃない? クオルの居場所なんて一発だよ」
「なるほど、確かにそうですわね」とレモニカは同意する。「今回のことでもクオルを追うきっかけになりました。わたくしはてっきりベルニージュさまが、いえ……」
レモニカの言い淀みを気にせずベルニージュは呟く。「でも問題がいくつかある」
それにレモニカが答える。「文字を完成させた際に魔導書の衣だけでなく元型文字も光るので、こちらの居場所もばれてしまうことですわね?」
「うん。それが一つ」とベルニージュは肯ずる。
「残りの文字数も問題だよね」とユカリも一つ気づいた点を指摘する。「考えなしに完成させられない。残りはいくつだったっけ?」
「十二文字ですわ。ですわよね?」とレモニカはベルニージュに確認する。
「そう。残りは【上昇】、【崩壊】、【潜伏】、【沈黙】、【狂奔】、【魅了】、【予兆】、【天罰】、【開示】、【明晰】、【浄化】、【穿孔】。一度使った文字は使えない以上、あと十二回光らせる内に取り戻したい。それに、これは確信はないけど、元型文字を完成させるたびに魔導書の衣の触媒としての力が強くなっている気がする」
「ベルが言うなら間違いないね」ユカリは窓の外の真っ暗な夕方を覗き込んで呟く。「つまり文字を完成させるたびにクオルが魔法使いとして強力になっていくってことか。魔導書の衣自体に今までの魔導書のような固有の力がないのは救いだね」
「まだ分かってないだけかもしれない。確証はないよ。それにそうは言っても」とベルニージュは少し強い語調で言う。「初めから触媒としての力は封印した二冊の魔導書以上のものだからね。純粋に魔法使いを強化することが魔導書の衣の力であり、存在理由なのかもしれないよ」
レモニカが不安げに言う。「速やかに全て完成させてしまえばユカリさまが完成させてきたような魔導書に戻るのですよね?」
ユカリは上半身だけ寝台に寝転がって言う。「たぶんね。でもそうすれば、今度は文字を光らせることができなくて、クオルを探すのが難しくなるわけだ」
「うん。だからやっぱり出来る限り早く取り返すべきだ、とワタシは思う」とベルニージュはユカリに同意する。「それに、だとしても、だとすればこそすぐに解決すべき問題があるんだよ、ワタシたちには」
ベルニージュの真剣な言葉から、それが腹ごしらえを指している訳ではないことがユカリには分かった。
ユカリは少し考えるが思いつかず、尋ねる。「何? 何か他に問題があったっけ?」
首を傾けて向かいの寝台を見るが、レモニカにも分かっていない様子だった。
ベルニージュが壁を離れて、二人を見下ろす。「足だよ、足。クオルは馬車を持っているけど、ワタシたちは徒歩。このままじゃあ居場所が分かっても永遠に追いつけないって」
「そうだった」ユカリは天井を見上げて言う。「クオルの居場所が分かっても逃げられてしまうだけだね。じゃあ馬を買う? そんなお金はないけど」
「コドーズ団長が!」と声を上ずらせてしまったレモニカは小さなため息をついて言い直す。「わたくしたちに追いついた手段が何かあるのではないでしょうか? クオルとは協力関係になかったようですし、工房馬車に乗ってきたわけではないはずですわ」
「コドーズって牢獄にいるんだっけ?」とユカリは起き上がりつつ誰ともなしに尋ねる。
ベルニージュがユカリに手を貸して言う。「日が暮れたら出かけようか。奴が馬か何かに乗ってきたのならワタシたちが貰うとしよう」
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