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「へーえ。良かったじゃん。不倫野郎だったらどついてやろうかと思ってたよ」
――明けて月曜。
早速ランチタイムにマングローブこと三津子に報告する聡美である。「まあ……信頼出来るひとみたいです。宗教勧誘だったらもっと早くに動いてるでしょうし……」
「すぐうちに呼ぶ男って危ないよ。気をつけなね」
「分かってます」ついむくれてしまう。純粋性の塊みたいな百瀬を疑って欲しくないのだ。「最悪、そーゆー展開になったらとっととなぎちゃん連れて帰ってブロックします。通勤時間も変えます」
ディスプレイからつと目を離した三津子が、「……LINEとかするの?」
「……」
黙秘を肯定と捉えたらしい。してるんだー、と声を弾ませる三津子。「いいねいいねー中学生の恋みたい。うちそーゆーのなかったから全然羨ましいわぁ」
「……職場恋愛こそ理想じゃないですか」
「あらそう?」元々別の男との子どもを妊娠した三津子であったが、糸部と入籍後に彼の子どもを妊娠し出産した二児のママだ。頼もしいにもほどがある。「でも彼とは別の部署だし顔も合わせないし、職場恋愛って感じしないけど?」
「……女性小説サイトで人気なんですよ。その設定。まー、一番受けがいいのは男上司に女部下って設定ですけど……」聡美も愛読者のひとりだ。「職場って、しなければならないことが満載なくさくさした世界で、イケメンなんて身近には全く居ないから、不動の人気ジャンルなんですよ……」
それを聞いてふ、と三津子が息をこぼす。「……うちの旦那さん全然イケメンなんかじゃないけど?」
そこでYesと答えられるほど空気の読めない女ではない。いやいや、爽やか系じゃないですか、と聡美はお茶を濁しておく。真のイケメンが誰なのかを知っている。恋を知る女は大宮アルディージャよりも無敵である。勝ち点35で奇跡の残留を果たしたあのチーム。
「まあ、なんにせよ土曜日が楽しみだね。なぎちゃんもはるちんに懐いてるんでしょう?」
「ええ……」頷く聡美。「流石四歳児のパパだけあって。子どもを遊ばせるのが上手で。あたしよりも母親に向いているかも……」
「はるちんのご両親て健在なのかね。なんか話聞いてる限り、ひとりで子育てしてる感プンプンするんだけど……」
「それはあたしも思ってました」カフェオレを口に含む聡美。「仮に実母と同居してるなら、子どものお迎えとか……子育てとか。たぶん甘えちゃってますよね? ……なんとなく『居ない』感じがするんですよね……でも死別だったら聞くのも申し訳ないので、聞けずにいます……どのみち土曜日には確かめられるので」
「他人の恋愛って面白いねえ」にたり、白い歯を見せる三津子。「結婚すると恋愛って出来ないじゃん。だからさー。恋愛成分飢えてんだよねこっちは。ドラマや漫画が面白いのもそーゆー理屈で。いつなんどきでも不倫ドラマは大流行ってわけよ……」
「禁止されると人間したくなっちゃうんです」舌を出す聡美。「どうしてもして欲しくないのなら、『それしちゃダメ!』て言うより、違うことを『して』って言うほうが、断然効果的ですよね……なんでこんな簡単なことを世の中の人間の大多数が知らないのか、不思議でならないです……」
「メッセってどんなの?」瞬時に話を切り替える三津子。アクロバティックな会話はなにも西之園萌絵の専売特許ではない。「『おはよう』とか、『おやすみ』とか、そーゆーの?」
「……」
がはは、と三津子が大口を開けて笑う。「なんだそれ。甘酸っぱすぎて言えねえって中二かよ」
ったく。羨ましいぜー。
肘で小突かれる聡美の胸中。……まんざらでもなかった。
『おはよう。今日も可愛いね』
『さとちゃんの笑顔に癒された。これで今日も仕事頑張れる』
朝、顔を合わせるのは変わらない。百瀬から極上の「おはよう」の肉声を受け取り、……一日二三度やりとりをする。通知が来るたび胸がときめいてしまう。
――会いたい。
あの優男ばかりではない。もっと違う顔も見せて欲しい……町田で出会ったときのように。そして。
見たこともない世界へ、連れていって欲しい……。
百瀬とどうなるかなんて、分からなかった。二人とも子持ちだ。気軽に恋愛出来る、そういう状況下にない。ネガティブなほうの聡美が険しく問いただす。……もし別れることになったらどうするの。あの子たちが可哀想じゃないの――と。
しかしながらつき合い自体もまだ始まっていない。これからだ。これからなのだ――と。期待に胸を膨らませる聡美自身が聡美のなかの九割を占めている。
金曜日の夜、最後に聡美が受け取ったメッセ。
『いよいよ明日だね。楽しみにしているよ。おやすみなさい』
素早く聡美は返信する。『おやすみなさい』既読がすぐついた。……いつも娘とほぼ同時に眠る聡美であったが。遠足を心待ちにする子どものように、なかなか寝付けなかった。
* * *
「お邪魔します……」
「おじゃましまーす!」
町田から二駅先。ママ友の居ない聡美が、よそのお宅にお邪魔するのは大学生の頃以来。出されたスリッパを履き、百瀬の住むマンションへと足を踏み入れる。……わあ。
十畳を超えると思われるリビングにはスーパーで見かけるタイプのかごがあちこちに置いてあり、いずれもおもちゃでいっぱいだ。葉月のものと思われる。――広い。3LDKだろうか。
ダイニングチェアに聡美たちを座らせバッグを預かる百瀬は、「……親父は土曜日も仕事で帰りが九時くらいになるから、気を遣わないでいいよ。……因みにうちの親」
ぼくが中学生の頃に離婚している。ぼくは父に引き取られたんだ。
「そう……なんですね」やはり、そうだった。百瀬からは実母に甘える空気が微塵も感じられなかった。あの予感は――正しかった。
「なぎちゃん。なにして遊ぶー?」
「お絵描きー」
「じゃあ、持ってくるー」
「ありがと」と聡美は微笑む。背後のカウンターキッチン内でお茶を淹れる百瀬の気配を感じながら……ダイニングテーブルにお絵描き帳を広げ。自分たちの世界観を表現するさまを見守る。美凪が描くのは自分とママ。葉月が描くのはやはり、……自分とパパ。それを見たときにある疑問が湧きあがる。
――ママは、どうしているのだろう。
元夫は別として。親権を持たないほうの親と子どもは月一回会うのが平均的なようだ。百瀬の場合、どうしているのか。……ママは。『これから描く』のか、それとも『最初から居ない』のか……。
葉月が自分と手を繋ぐパパを描くさまをやきもきして聡美が見つめていると、百瀬がティーセットをトレンチに乗せて現れた。「熱いから、ちょっと向こうのほうに置くね……」
百瀬が向こうにティーカップを置いていく。――と。
聡美の目の前に百瀬の肩そして腕が迫る格好となる。……いい匂い。
久々に感じる生の男の気配。……欲情する自身を、正直に、胸のうちに感じていた。
聡美の背後に回り込み、隣に座る百瀬は微笑みかけた。「なんか、……久しぶりって感じもしないけど、久しぶりだね」
顔を横に傾け聡美は笑みを返した。「毎朝会っていても、お互い時間に余裕がありませんから、こうしてお話しすることも出来ませんものね」――と。
テーブルのうえに添えた聡美の手に百瀬の手が重なる。……えっと。
どうすればいいのだろう……。
顔を赤く染める聡美の反応を、柔らかく百瀬が見守る。「なんか、……触りたくなっちゃって」……その言葉で。
思い切って聡美は、からだを右に傾け、手を伸ばし、百瀬を――抱擁する。
どくんどくんと。
固く厚い胸板から、彼の鼓動が伝わる。……久々の異性とのスキンシップに興奮するのは自分だけではないようだ。
「ごめんはーちゃん」がたん、と聡美の背に手を添え立ち上がる百瀬。「パパ、なぎちゃんママとあっちに本読みに行ってくるから……二人で待ってて?」
「うん」
「いーよ」邪気のない目で子どもたちが答える。……と、聡美の胸はある予感で高まった。
手を引く百瀬が聡美を連れて行ったのは、――バスルーム。と思いきやそこに繋がる洗面所で停止する。
ドアに鍵をかけ。ためらいもなく脱ぎ始める百瀬の肉体――の美しさに聡美は魅せられていた。一見すると細身に見えるが、現出するのは厳然たる男だった。盛り上がる腕の筋肉の動き。たくましい背中。鏡に映ることでそれはより鮮明となり、ありありとしたかたちで聡美に迫った。必然。
聡美もセーターを脱ぐのだが、うえがブラ一枚となったときに。百瀬が聡美をぐっと抱き寄せ。そして男を望んでどうしようもない彼女の唇に唇を重ねた。……切ない。彼の背に手を回し、からだを密着させ、熱く甘い百瀬の舌と舌を絡ませあう。貪るようなキス。天国に導かれたかのようだった。どっと自分のなかからなにかが溢れてくるのを聡美は感じていた。それがなんなのかは、確かめるまでもない。
時間は限られている。超絶的な技巧で聡美のなかを味わい尽くした百瀬は続いてブラのホックを外す。――ぱちん。
滑り落ちる音を聞き、聡美の理性は消し取んだ。細い聡美のウエストに手を添え、首筋から順番に舐めとっていく百瀬。
「ああ、……やわかい。あなたのからだ……」
乳房を揉みしだき。敏感なる蕾を口に含み。舌で弄ぶ百瀬の動き。彼のすべらかな背中に手を添え、聡美はあまりにも発情した。――駄目。
声なんか出しちゃ……。
ところが百瀬の行為は加速していく。聡美のスカートの下に迷わず手を差し込むと、タイツ越しに彼女のぬめりを湿りを――確かめ。
自分でも触るまでもないほどにそこは潤っている……。
ちちゅちちゅと水音を奏でられ、「挿れて」と聡美は口走っていた。あられもない自分の、欲情を……。
引き出しから取り出した百瀬は全身はだかとなり。聡美の下着をタイツを脱がせ。スカートを履かせたままの状態で装着すると聡美の片足をあげ、ひと息に――貫いた。
「……あ。ああっ……!」
弾け飛びそうだ。最奥まで到達する百瀬が心強い。ずっとこの展開を待ち望んでいたのだ、密かに、密かに……。
「あん。あん。ああ……っ」冷たいドアに背を預け。百瀬がかるく腰を揺らすだけで甘い声を聡美は発してしまう。聡美と繋がったまま、百瀬はそこらのタオルを引っ掴んで聡美の口に押し込んだ。――ん。
ん。ん。んん……。
「――激しくいくよ」
有言実行の男だった。聡美はあっという間に淫らな世界へと押し込められ、そのただなかで涙した。いままでに感じたことのないほどにそれは激しかった。気持ちがよかった。聡美の最も感じる場所を探り当てて、そこを追求する男の動きが嬉しかった。
「弱いんだね、ここ……」余裕を持った男の腰使い。「すごい、びくびくとしてるの、分かる……?」
その言葉だけで聡美は高波にさらわれていった。
到達は同時だった。時間にして五分だったろうか。だが膝下まで垂らすほどに聡美は感じており、……あまりのエクスタシーの余波に耐える中。百瀬がタオルを外して聡美に口づけてくれる――そのことが嬉しかった。
「ぼくたち、ちゃんと付き合おっか」
セーターを頭から被っていると百瀬が言う。彼も全身元通りの姿となり――シャワーも本当は浴びたかったがそうも言っていられない。
「……はい」聡美が頷くと、やった、と百瀬に抱き締められる。……さきほど彼女のなかで暴れ狂った猛々しい男。あれは、百瀬のなかに、実在する。彼という男のかたちが聡美のなかに、しっかりと刻み込まれている。余韻に浸りつつも聡美は、
「……そろそろ戻らなくちゃ」
「もうちょっとこうしてたい」
甘えたような百瀬の声に、「……分かった」
男の肉体はなんともたくましい。あまりに時間の限られたされど濃密なセックス。この布越しに潜む肉体を舐め回したい。それは、聡美のなかに存在する、抗えない欲求であった。
されど聡美は首を振る。いまは、……子どもたち第一だ。
「あんまり遅いと子どもたちに怪しまれるから」そっと百瀬の胸を押す聡美。「……先に戻ってるね」
「んーでも」百瀬は、聡美の両の頬にぴったり手を添えると、「もうちょっとあなたのことを味わってから……」
最後の接吻は思い出せないくらいに昔だった。だが、……
百瀬は『巧い』。事実、彼女は腰を抜かしそうになっている……。
脱力し、へたり込む聡美の頭を百瀬が撫でた。「じゃあ、ぼくがお先に……」
ちゅ。
と身を屈め、ほっぺにキスを落とす。その余裕がちょっぴり憎らしかった。
「寝ている狼のお腹を切り開き、石を詰め込むと、お母さんは狼のお腹を縫い上げました」
……なかなか残酷な話だ。ちょこんと膝のうえに子どもたちを座らせ、何事もなかったかのようにリビングにて胡坐をかいて絵本を読み上げる百瀬の姿。ぬるくなった紅茶を飲み干すと、聡美は百瀬の隣に膝をつく。
視線を絡ませる。それは、……以前のものとは異なっていた。一度関係を結んだ男女には特有の空気が流れる。それを二人ともが、感じ取っていた。
ストーリーは、お腹に石を詰められた狼が川に溺れ、七匹の子ヤギとお母さんが平和を取り戻したところで終了する。
「結構えぐい話なんですね」と、次の絵本に手をつける百瀬に語り掛ける聡美。すると百瀬は子どもたちに絵本を選ばせながら、「……グリム童話って意外と残酷なものが多いんだよね。ラプンツェルも本当は、塔にやってくる男を次々抱いて、次々殺していく女の子のお話でしょう……?」
「わ。そうなんだ」美凪がディズニープリンセスの絵本を選ぶ。「あっそれ、うちにもあります。美凪それ大好きなんですよ……」
「なぎちゃん自分で読めるもん」
「じゃあ読んでみて」
五歳ですらすらひらがなの絵本を読み通す美凪に、百瀬が目を見張った。「すごいね。なぎちゃん毎日絵本読んでんの……?」
「保育園で読んでて。うちでは別に意識して読み聞かせしているわけじゃないんですが……あっという間ですよ。気がついたらカタカナも読めるようになってました……」誇らしげな聡美は口許を緩め、「この調子で行くと瞬く間に小学生ですね」
「速いよねえ本当」美凪のナレーションに聞き入る葉月の髪を撫で、「四年なんか、……あっという間だったなあ……いろんなことがあって」
「百瀬さんてどんなお仕事されてるんですか?」
「若年無業者に職業を紹介し、体験させる職業。……企業と無業者の仲介業者みたいなもんかな」
「……へーえ」思いもよらない回答だった。「いわゆるニートに紹介することが多いんですか?」
「ニート以外で職業を持たない若者も多いよ」そのとき聡美は気づいた。百瀬の目は――仕事をするときのそれに切り替わっていることに。「虐待の相談が去年の速報値で年間約十二万件、小学校、中学校の不登校児童が年間十二万人ぐらい、高校中退者が約五.六万人で、大学などを辞めるひとが十一万人、ニート状態にあるひとが六十万人くらいで、一部対象はかぶるけれど、ひきこもり状態にある人がだいたい七十万人近くいる。働く人の約三分の一が非正規労働者で、五人に一人が年収二百万円以下、そして四人に一人は貯金がない」
すらすらと述べ立てる百瀬に聡美は面食らった。どの事実を拾えばいいのか分からないけれど、「……そんなに居るんですか?」
「因みに。二十五歳の人間が無職だとして。その人間を死ぬまで養うに社会が支払うべきコストは1.5億円だと言われている。人道的な理由のみならず経済的な観点からも、職に就かない若者を就労させるのは非常に大事だ。……ぼくの見た限りでは、『ニート』状態にある若者は少なく。人間関係。スキルアンマッチ。なにかしらの理由で躓いて、苦しんでいるひとが大多数だ。社会全体として考えていく問題なんだよ」
熱弁を振るうパパには慣れっこなのか。気にせず美凪の音読に聞き入る葉月に目を向けつつ、「……保育園のお迎えは百瀬さんがされてるんですか。お父様の帰宅は遅めだとさっき仰ってましたが……」
「定年過ぎてんだけどね。今度は病院に出向になって。医師と看護師と患者の板挟みで、奔走してるよ……」もういい年なのにね、と片目をつぶって見せ、「今度ちゃんと紹介するね」
「えっ……とぉ……」さっき『あんなこと』をしてしまったが。いったいどうしたらいいのか。百瀬のこと。今後のこと……。
惑う聡美の手を百瀬が握る。熱い眼差しで彼は、
「大丈夫だよ」聡美の胸中を看破し、背中を押す。「どんなことだって、二人なら、乗り越えていけるさきっと……」
――頼っていいのだろうか。このひとに。
信じてもいいのだろうか。このひとに。……
男はもう懲り懲りだと思っていた時期があった。元夫の件で、出産も結婚ももうたくさんだと思った。はずなのに……。
いまの聡美は、間違いなく百瀬との幸せを望んでいる。彼の居ない未来など、考えられない。考えたくもない……。
すがるように聡美は見た。すると百瀬は迷わず、そんな聡美を抱き寄せた。
鼻孔にすり込まれた彼の、匂い。セクシャルな響き。あのかたち。……
彼の腕のなかで彼の感情を味わうそのときが、聡美にとっての喜びだった。
*